第二百四十話 ハルカと豆猿

「……豆猿?」


 つぶやくと同時に、また左斜め上からビュンと飛んできたのをよけると、枝に並んでいた豆猿たちが一斉に散って、あちこちからスジュの実を投げてくる。


「だぁッ! なんだ、コイツら!!」


 オヅマは相手しきれないと思い、走り出した。

 いつの間にかいなくなっていたハルカの姿を見つけると同時に、息をのむ。

 前を走るハルカもまた、豆猿からスジュの実を投げられていたが、流れるような身のこなしでよけていた。

 オヅマは信じられなかった。

 重いはずの足輪をしていてなお、あの俊敏な動き。


 ハルカはオヅマの視線に気付いたのか、こちらを向いた。

 一瞬、隙ができてハルカの足にベチョリと実が当たる。しかしハルカは全く気にする素振りもなく、再び駆けていった。

 やがて木々が途切れて、川べりの拓けた空間に出ると豆猿達の攻撃はやんだ。


「お前……」


 オヅマはハルカに聞きたいことが色々とあったが、息が切れて言葉にならない。

 一方、オヅマよりも動き回りながら走っていたハルカの顔は涼しく、息切れもしていない。肩がまったく動いていないので、隠しているわけでもないだろう。


 ハルカはしばらくオヅマと見合っていたが、ついと横を向くと、川にザブリと入った。

 足についていた果汁が見る間に流れていく。

 そのままザバザバと大きな岩がいくつか並んでいるところまで歩いていくと、しばらく、じいぃーっと佇んでいた。


 オヅマは静かにしていた。

 ハルカが魚を狙っているとわかったからだ。

 案の定、ハルカは急に手を川の中に突っ込むと、魚を一匹掴んでいた。そのままポイとオヅマのいる川べりへと投げる。

 土の上で魚がピチピチはねていた。


 オヅマが飛んできた魚からまた再びハルカの方へと目をやると、ハルカはじっとオヅマを見ていた。

 やはり表情は乏しく、何を考えているのかわからない。

 オヅマはハッとルミアに言われたことを思い出した。


 ――――― 今日のアンタのおまんまを調達してきな…


 つまり、自分の食い扶持は自分で取ってこい、ということだ。


 オヅマは靴だけ脱いで、川に入っていった。

 ズボンを脱ごうかとも考えたが、さっき豆猿どもにさんざんスジュの実をぶつけられたせいで、すっかり汚れて今更濡れるのを気にするような状態でもない。


 ハルカは川の中に入ってきたオヅマに、別の岩場を指し示した。


「わかった…」


 オヅマは頷いて、素直にその場所へと向かう。

 岩の水に浸かっている部分にはびっしりと苔が生えていた。

 ハルカと同じようにしばらくじっとしていると、白い魚がゆっくりと寄ってくる。よく引き付けてから、オヅマも同じようにして手で掴み取ろうとしたが、魚はパシャリと響いた水の音に、間一髪で逃げていった。


「チッ……タモでもありゃあな……」


 オヅマはつぶやき、ハルカの方を見ると、ちょうどハルカがまた川に手を突っ込んで、魚を取っていた。

 いや、取っている…というより、魚を叩いて川から飛ばしている、と言ったほうが近いだろう。手はまっすぐに指を伸ばして、川に入れるときも水音をなるべくたてないように水面と垂直にして、そこからの動作は一気だ。


「そうか…」


 オヅマは要領を得ると、すぐさま一匹魚をすくい取った。同じように岸辺へと飛ばす。

 二人で大小十匹近くを取ってから、ハルカが持っていた布袋に魚を入れて帰り道についた。

 そのときにはすっかり辺りは暗くなり、豆猿達もねぐらに戻ったのか、もう実をぶつけてくることはなかった。


「なぁ…」


 オヅマは少し前を歩くハルカに声をかけた。

 ハルカは足を止めて振り返るが、黙ったまま、オヅマを見つめるだけだ。


「さっき、お前、豆猿からスジュの実を投げられてたの…ぜんぶよけてたのか?」


 ハルカは少しだけ考え、左足を少しだけ持ち上げた。

 どうやら全部は避けられなかった…ということらしい。

 そこはさっき、実がぶつけられたところだったが、川の水ですっかり綺麗になっていた。


「いや、それはお前、俺に一瞬、気ィ取られたからだろ? 悪かったな」


 ハルカはまじまじとオヅマを見ていたが、やっぱり何も言わなかった。肩にかけていた袋を軽く持ち直して、また歩き始める。


「あ、おい。それ重いんだったら…」


 オヅマは少し小走りになってハルカの後を追ったが、そのとき、足元がズルリと滑った。


「うあッ!」


 声を上げて、見事に尻もちをつく。

 ベットリと黒っぽい汁が、手についた。おそらく尻にも。

 先程、豆猿達が投げまくっていたスジュの実が、地面に叩きつけられて潰れ、それに足をとられたらしい。


「……プッ」


 ハルカが思わずといったようにふきだす。

 それまで一切の感情をなくしたかのように、凍りついていたハルカの表情が緩むのを見て、オヅマはホッとした。

 年相応の、可愛らしい笑顔だ。


「そんな顔するんだな…お前」


 立ち上がりながら、思わず出た言葉が、胸をく。

 まるで随分と前から彼女を知っていたかのような感覚に、自分でも理解が追いつかなかった。


「あ、いや…」


 訂正しようとしたが、ハルカの顔から既に笑みは消え、鈍い目でオヅマを見上げるだけだった。


 オヅマは少しだけ頭痛がしたが、軽く頭を振って痛みを飛ばした。

 無表情にじぃとオヅマを見つめるハルカに、またニッと笑ってみせる。

 そのときに魚を入れた布袋が、ハルカの肩に食い込んでいることに気付いた。


「それ、貸せ。俺が持つ」


 オヅマは布袋をハルカから取り上げて歩き出したが、ハルカはボンヤリ佇んでいた。


「なにしてんだよ? ホラ、行くぞ」


 ハルカに手を差し出すと、ハルカはオヅマの手と顔を交互に見て目を何度かしばたかせた。戸惑っているようだ。

 オヅマは、グイとハルカの手を取った。


「行こう。腹減った」


 手を引いて歩き出す。

 不思議そうに見つめながらも、ハルカはオヅマの手を離さなかった。


***


 ルミアはすっかり青黒く染まったオヅマの服を見てゲラゲラ笑った。


「まぁ、まぁ! 見事にやられたもんだ!」

「よく言うよ…」


 オヅマはつぶやきながら、ひどく臭う自分の服に眉を寄せる。


「よりによってスジュの実なんぞ投げてきやがって、あの豆猿ども」

「ホ。アンタ、スジュの実を知ってんのかい?」

「知ってるよ。薬師の婆さんと一緒に取りに行ってたから…」


 春先に青黒の実をつけるスジュの実は、特に美味しくもない上に、実が熟してくるに従って臭ってくるようになる。その臭いは有り体に言えば、牛糞だ。しかし庶民にとっては有難いことに、煮詰めて濾すとクリーム状になり、それは簡単な傷薬として使えた。もっとも臭いが残るので、あまり人気はない。


「ほぉ、お前さん。薬の心得があるのかい?」

「心得ってほどじゃない。単純に頼まれて、薬草を取りに行ってただけだ」

「フン。ま、いい。とっとと着替えてきな。臭い服着て、食卓に座られちゃ迷惑だよ」


 言われるまでもなかった。オヅマが着替えを持って外に出ると、ハルカが魚の袋を持って待っていた。

 オヅマの顔を見ると同時にクルリと背を向けて、歩き出す。


 おとなしくついていくと、家から数歩の距離に、伏流水の湧き出る泉があった。

 周囲には石を並べて膠泥モルタルで固めた簡単な洗い場が作られている。


「ん」


 ハルカは洗い場の隅を指さした。

 どうやらそこで洗えということらしい。


「わかった」


 オヅマが汚れた服を脱いで着替えている間に、ハルカはさっき捕ってきた魚を洗っていた。手際よく小さな刀で腹をさばき、はらわたを掻き出して、それを持ってきた瓶に入れている。おそらく肥料か何かにするのだろう。


 オヅマも洗濯桶に汚れた服を入れて洗っていたが、完全に落ちそうにはなかった。色はともかく臭いは取り去っておきたいと思って、ひたすらガシガシ布をこすって洗っていると、不意に青々とした葉っぱが差し出された。


「ん? なんだ? ……あ、洗濯草か、これ」


 オヅマはハルカの持ってきてくれた草を見て、すぐにわかった。


「ありがとな、助かる」


 のこぎり状の葉っぱを数枚受け取って、水につけて揉んでいると、徐々に泡立ってくる。

 これは洗濯草と呼ばれる、どこにでも生えている雑草だった。水に浸けて揉み込むと泡が立つ。その名の通りに洗濯するときの、石鹸代わりとなるものだった。

 それでも完璧に汚れが取れるわけでもない。やっぱりまだらに青の染みが残っていたが、オヅマは気にしなかった。

 公爵邸にいるときと違い、うるさ方(=マティアス)もいないし、修行に来て着飾るつもりもない。そもそも汚れてもいい服を持ってきている。


 オヅマが洗っている間、ハルカは既に自分の仕事を終えて待っていた。

 何も言わず、じっとオヅマを見つめている。


 たまたま訪れた沈黙に、オヅマはやや逡巡しながらハルカに問いかけた。


「なぁ、ひとつ聞いていいか?」


 ハルカは軽く首をかしげる。


「もし、言いたくなかったら言わなくてもいい…」


 あえてそんなことを言ったのは、むしろ自分のためだった。

 まだためらいがある。それを聞いたところで、今のこの状況が何か変わるわけでもない。

 しかし、オヅマは結局尋ねた。


「お前の母さんの名前は?」


 ハルカはパチパチと目をしばたかせたあとに、ポツリと言った。


「リヴァ=デルゼ」


 聞いておいて、頭を殴られたかのような痛みが走る。

 しかし、オヅマは必死で動揺を隠した。

 ハルカには関係のないことだ。あの女が母親であったとしても…。


「……そうか…」


 オヅマは無心になって、服に泡をなすりつけるようにして洗った。


 まだオヅマを凝視するハルカの背後、木立に紛れて二人の様子を窺っていたルミアは、ゆっくりと家へ戻っていった。

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