第二百三十八話 老師ルミア(1)

 マッケネンはいつまでも馬から降りてこないオヅマを不審そうに振り返って、ギョッとなった。


「どうした? オヅマ」

「………え?」

「顔が、お前…真っ青だぞ」

「いや……」


 オヅマはごまかすように無理に笑みを作ると、馬から降りたものの、ほとんど落ちたに近かった。

 マッケネンはあわててオヅマを支えた。


「大丈夫か? どうしたんだ、いきなり…」

「大丈夫だよ」


 答えながらも、オヅマの頭はガンガンと殴られたように痛み、得体の知れない恐怖感で背中は汗でびっしょりだった。


 得体の知れない…?

 いや、わかっている。

 すっかり忘れていたの中から、リヴァ=デルゼの腕が伸びてきて、オヅマの頭を鷲掴みにしていた。



 ――――― 悪い子だ…



 ねっとりと絡みつく囁きは、真綿でゆっくりと首を絞めるかのように、オヅマの思考を止める。抗うだけ無駄だと、諦めて受け入れることを強要してくる。



 ――――― どうせなら愉しめ…オヅマ…



「……う…」


 息が、できない。

 オヅマは首を押さえて、その場にくずおれた。

 ぐるぐると視界が回って、意識を保つことが苦しい。いっそ気を失いたかったが、異常なほどに逆立った神経はそれを許さなかった。 


 マッケネンがそばで必死になって呼びかける声も、奇妙な雑音に紛れてよく聞こえない。

 オヅマの肩を強く掴むマッケネンの手だけが、オヅマをでない現実にいるのだと実感させてくれていた。

 しかし、嘔吐感と頭痛は治まらない。


 その時、あきれた溜息が聞こえた。


「ずいぶんと弱々しいガキを寄越したもんだね。剛勇なるグレヴィリウスにしては、人選を間違えたんじゃないのかい?」


 オヅマを苦しめていたリヴァ=デルゼの幻影は、その声でパッと霧散した。急速に頭痛も嘔吐感も消失する。

 顔を上げると、腕を組んだ女 ――― ルミアがオヅマを見下ろしていた。


 ――――― 違う…


 よくよく見れば、そこにいるのはリヴァ=デルゼではない。

 女にしては大柄な体つきと、セピアの瞳は似通っていたが、年齢がまったく違っていた。

 オヅマのに出てきていたあの悪魔は、二十代後半くらいだ。目の前の老女はいくら若く見えても、五十より下ではないだろう。それに ―――


「なんだい、坊や。会うなり吐きそうな顔して倒れ込むような奴に稽古をつけるなんぞ、御免蒙るよ、私は」


 ハキハキした切れの良い話し方は、リヴァ=デルゼとまるで違っていた。

 声も、着実な人生経験を積んできた者の、低く落ち着きのある、安心感のもてる声音だ。婀娜あだっぽく、ねばりつくような、酒ヤケしたあの女の嗄声しわがれごえとは違う。


 オヅマは一度、大きく息を吐いてから立ち上がった。

 軽く服についた土を払って、ルミアに頭を下げた。


「醜態をさらし、失礼しました。オヅマ・クランツと申します」

「クランツ?」


 ルミアは少しだけ考えて、意外そうにオヅマを見た。


「あの男の息子がこんなに大きくなったとは意外だね。病弱で十歳とおまでも生きられないと言っていたのに」


 オリヴェルと勘違いされているとすぐにわかって、オヅマは訂正した。


「いえ。俺…僕は、オリヴェルではありません。クランツ男爵とは、母が再婚して…」

「なんだってェ? 再婚? あの男、また懲りずに結婚したのかい?」


 ルミアはひどく驚いて、頭をおさえた。


「なんだってまた…。どうせ、失敗するだろうに」

「失敗?」

「あの男は結婚にゃ向かないよ。どこまでいっても主君一筋、頭の中身が騎士根性で塗り潰されているような男なんだからね」


 オヅマは複雑だった。

 確かにそうだとも思うが、母に対するヴァルナルの態度を見る限りは、今のところは極めて良好であるように思える。

 

 何も言えなくなっているオヅマの隣で、マッケネンがククッと笑った。


「いや、老師殿。それが、ヴァルナル様もすっかりお変わりになられましてね」

「へぇ?」


 ルミアは理解しがたいといった感じで腰に手を当て、首をひねる。


「あの男が? 公爵に立ってろと言われたら、三日どころか一月、下手すりゃ半年でも立ってそうな、あの男が?」

「そうなんです。新たな奥方は、顔立ちだけではなく、心映えも優れた御方でして」

「ふぅん…」


 ルミアは適当に相槌を打ってから、チラリとオヅマを見て、尋ねてきた。


「お前さん、お母さんに似てるのかい? それとも父親?」

「………父の顔は知りません。肌の色と瞳の色は母と同じです」

「母親の髪の色は?」

「……金髪ですけど…それがなにか?」

「ふーん……」


 ルミアはジロジロとオヅマを無遠慮に眺め回してから、また腕を組むと、フンと鼻を鳴らす。


「なんだい。なんだかだ言って、やっぱりあの男、面食いじゃないか」

「ハイ?」

「いや。当人は顔なんぞ気にしないとか言ってたがね、私は前々から思ってたんだ。この男はおそらく面食いだと」

「…………」


 オヅマは黙り込むしかなかった。

 まるでヴァルナルが母の色香に惑わされたような言い方だ。そんなわけがない…と抗議できないのは、母が美人であることは疑いようもないからだ。もっとも息子の立場でそれを認めるのもなんだか面映ゆい。


「まぁ、リーディエ様のような方を近くに見ていたら、女を見る目が厳しくなっても、仕方ないだろうが…」

「リーディエ?」

「公爵閣下の亡くなった奥方様だよ」

「あ……」


 以前に見たとき色の髪の貴婦人の絵を思い出す。

 確かに美人ではあった。

 母と比べてとなると……やっぱり息子なので公平な判断は下せない。


 気まずそうなオヅマを窺い見てから、マッケネンは安心したように言った。


「大丈夫そうだな? じゃ、俺は帰るぞ」

「えっ? もう?」

「おぅ。今から駆ければ夜までにターゴラ(*前夜に泊まった宿場町)には着く。早く帰って、ヴァルナル様にお前を無事に送り届けたことを伝えないと、きっとやきもきして待っておられるだろうからな」


 マッケネンは笑って言ってから、ルミアに深々と頭を下げた。


「それでは、私はこれで失礼します。先程は緊張と、この数日の旅の疲れが出たせいで、少しばかり調子を崩したようです。一晩寝れば、おそらく明日からは目を見張られることでしょう」


 マッケネンはオヅマの才能を称賛しつつ、さりげなくオヅマの体調を気遣って、今日一日は休ませてくれるように頼んでいた。

 ルミアは肩をすくめて、オヅマをまたチラと見た。最初にオヅマを値踏みしていたあの目だ。


「じゃあな。がんばれよ」


 励ますようにオヅマの肩を叩くと、マッケネンは馬にまたがった。


「あ…うん。ありがとう、マッケネンさん」


 オヅマは今更ながらに、ちょっと心細くなった。

 本当ならここまで送ってきてくれたマッケネンに、丁重に感謝の意を述べるべきであったが、昔馴染みの気安さもあって、一瞬、レーゲンブルトにいた頃の、見習い騎士に戻ってしまった。

 マッケネンはオヅマのを見破ったのだろう。クスリと笑って、馬上から亜麻色の頭をくしゃくしゃと、やや乱暴に撫でた。


「がんばれ」


 もう一度、勇気づけるように言ってから、マッケネンは馬首を来た道へとやると、颯爽と駆け去っていった。

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