第三章
第二百三十七話 ズァーデン村の老師
「っとに……過保護だよ」
オヅマはあきれてため息をつく。
隣に並んで
「ま、仕方ないさ。俺だって弟が一人でここまで来るなんて言い出したら、誰かに連れてきてもらえと言うだろうしな」
「マッケネンさんの弟は帝都にいるんだろ? それだったら、まだわかるよ。いったって、ここからズァーデンなんて、このままのんびり行ったって三日か四日ってところなんだし、俺一人でも十分だっていうのにさ」
オヅマはむくれて口を尖らせながらも、なんとなく気になってチラと後ろを振り返った。
軽く走ってきただけなのに、もうアールリンデンは遠い。久しぶりに晴れ上がった春空の下、こんもりした森から公爵邸の尖塔が小さくのぞいていた。
――――― 行ってこい。……待ってるぞ…
見送るときのヴァルナルの嬉しそうな顔が、オヅマには少しむず痒かった。
ヴァルナルが単純に見習い騎士であるオヅマの上役であるなら、素直に期待されることが嬉しく、待ってくれることを心強く思っただろう。
ただそれが『父親』という立場になった途端に、オヅマにはどこか奇妙で心地悪かった。
オヅマの中での父という存在への嫌悪と不信は、魂に直接刻み込まれたかのように、拭い難い。
だから、ヴァルナルがどんなにいい父親であったとしても、素直に父と呼べなかった。
呼んだ途端に何かが狂って、ヴァルナルもまたオヅマにとって許しがたい存在になってしまうような気がする。
それが怖かった。
しかしオヅマの複雑な胸の内など、ヴァルナルには知りようもない。
わかりやすく寂しそうな笑顔を浮かべるヴァルナルに申し訳なくて、オヅマとしては譲歩と謝罪も含めて「ヴァルナル様」と呼ぶのが精一杯だった。……
「ここいらはもう暖かいな。レーゲンブルトじゃ、萌芽の月でも暖炉に火を
マッケネンは春の訪れた道を進みながら、のんびり言った。
オヅマはふと顔を上げて、道端に咲く野花を見てマリーを思い出した。
「向こうは、相変わらず?」
懐かしいレーゲンブルトのことを尋ねると、マッケネンは様々なことを話してくれた。マリーのこと、オリヴェルのこと、騎士団のこと…。
その中でも驚いたのが、黒角馬の研究団がいよいよ帝都に戻ることになったという話だった。研究自体はまだ帝都近郊で続けるようだが、レーゲンブルトでの研究団自体は解散するらしい。
しかも、トーマス・ビョルネは帝都のほうでの研究に専念するため、教師の職を辞して、もう帰ってしまったらしい。
そのことを嬉しそうに話すマッケネンにオヅマは首をかしげた。
「マッケネンさん、トーマス先生と仲良かったんじゃないの?」
「……おそろしいことを言わないでくれ」
げんなりしたようにマッケネンが言うと、オヅマはプッとふいた。
癖のある先生であったので、正直者のマッケネンにとっては、疲れる相手であったのかもしれない。トーマスはマッケネンのことを、大層好いていたようではあるが。
「トーマス先生だったら、帝都でもマッケネンさんに会いに来そうだね」
「そうなんだよ。アイツ、『また帝都でね』とか言って帰っていきやがった! 冗談じゃない。絶対に会わんぞ!!」
マッケネンは固く誓ったが、オヅマには帝都に到着するやトーマスが待ち構えているのが想像できた。
トーマスは自由奔放で、プライドが高く、自分なりの基準で認めた人間としか仲良くならない。マッケネンはアカデミーを受験するくらいなので、騎士としては相当に知識もあり、考察も深い。
たいていの人間とは話すだけ時間の無駄と豪語していたトーマスがそこまで気に入ったなら、そうそう手放すわけがない。
あの人は時々、人をおもちゃみたいに扱って楽しむようなところがある。
レーゲンブルトから休みなく走ってきたマッケネンの騎乗馬・ドゥエリの体調に合わせて、旅程はゆっくり進んだ。
野宿すること一泊、途中の宿場町で一泊して、荒野の道を往くこと半日、夕暮れ近くの西日の差す中、ズァーデン村に辿り着いた。
***
強い西日の光に目をすぼませながら、村のほぼ中央を貫く一本道を馬に乗って歩いていると、かすかに柑橘のような酸っぱさを感じさせる、爽やかな匂いがしてくる。
「なんだろう、この匂い…」
オヅマがつぶやくと、マッケネンが道々に植えられている木を指さした。
黄色い小さな花が毬のように群がって咲き、葉の形は楓に似ている。
「あれだよ。ロンタっていう木だ。黄色い小さい花が咲いてるだろ? あれから匂ってくるのさ」
聞いたことがあるなと思ったら、ヴァルナルが常日頃に食べる実の名前だった。
「ロンタの実って、あのものすごく酸っぱい実だろ?」
「そうそう。領主様が眠気覚ましに食べるやつ」
「え? そういうことだったの? 俺、単純に好きなんだって思ってた」
「好きか嫌いかでいえば好きなんだろうけど、大好物ってわけじゃないだろうよ。どちらかというと、非常食だしな。あれを食べていると、怪我したときに膿みにくいんだ」
「へぇ…そうなんだ」
話しながらもマッケネンは道を進んでいく。
見慣れない黒角馬に、村人たちは驚いて振り返り、口々に噂話を始めていた。
もっともマッケネンのマントに翻るレーゲンブルト騎士団とグレヴィリウス公爵家の紋章を見れば、誰も文句など言ってこない。
オヅマもまた、グレヴィリウスの紋章が背に染められた青藍色のマントを羽織っていた。
どこからどう見ても公爵家から来た人間だとわかったのか、村人の誰もオヅマらの通行を咎めることはなかった。
しばらく歩いていると、つばのない茶色の帽子を被った小太りの男が声をかけてきた。
「もし、グレヴィリウス公爵家の方とお見受け致しますが……」
マッケネンは予想していたのだろう。馬を止めると、騎乗したまま男に言った。
「まさしく我らはグレヴィリウス公爵家より参った。これなるは小公爵様の近侍を務めるクランツ男爵の子息、オヅマ公子であらせられる」
男はあわてたように帽子をとると、ハハッと平伏した。
周囲に見物に来ていた村人たちも、あわてたように跪く。
オヅマはひどく居心地が悪かった。ついこの間までは、自分こそこの人々と同じように頭を下げていたというのに。
しかも『オヅマ公子』なんて、聞くだにゾッとする。
しかし黙っておいた。ここでマッケネンに文句を言っても仕方ない。
男はこの村の村長だという。ここに来た理由を聞いてきたので、マッケネンが答えた。
「老師の元に来た」
「あぁ、ルミア様の元へ…それはそれは。そういえばクランツ男爵様も昔おいでになりましたな。あの折は私はまだ…」
「すまないが、先を急ぐので失礼する」
マッケネンは長くなりそうな村長の話を打ち切って、再び馬に合図して歩き始めた。
オヅマはまだ何か言いたげな村長と目が合ったが、さすがに男爵の息子においそれと口をきくような無礼はしてこない。軽く会釈をしてから、マッケネンの後に続いた。
「なぁ…」
山道を進むマッケネンにオヅマは声をかけた。
老師の家はどうやら村から少し外れた、森の中にあるらしい。
「老師って……もしかして女なのか?」
尋ねたのは、さっき村長が「ルミア様」と言っていたからだ。それは女性名だった。
マッケネンは残念そうに「あーあ」と声を上げた。
「ベントソン卿から、実際に会うまでは内緒にしておけと言われたのになぁ」
「は? 何考えてんだ、あのおっさん」
「またお前は! あの人、ああみえてものすごく偉い人なんだぞ。呼び方に気をつけろ」
「いないんだから、いいだろ。それより女なのか?」
「そうだよ。でも、女だからってみくびってたら、痛い目みるぞ。とんでもない婆様なんだからな」
マッケネンはニヤリと意味ありげに笑ったが、オヅマはふいに嫌な感覚になった。
――――― 女だが、有能な戦士だ……
思い出したくもない。
その声も、自分を睥睨するセピアの瞳の大女も。
あまり整備されていないデコボコ道を上って、マッケネンは二本のロンタの木の間にある、小さな石造りの家の前で止まった。爽やかな香りが漂ってくる。
屋根とロンタの木の間は板が渡されてあって、ちょっとしたバルコニーみたいになっていた。もっともその上でヒラヒラと揺れているのは洗濯したシャツのようだったので、物干し場と言ったほうが正しいのかもしれない。
家の前で馬を止めると、まるで待ちかねたかのように、ギイィと扉が軋みながら開く。
「お久しゅうございます。ルミア=デルゼ老師。修練者を連れて参りました」
マッケネンはあわてて馬から降りて挨拶したが、オヅマは馬上で凍りついた。
そこにいたのは初老の女だった。
しかし堂々たる体躯は先程の村長よりも一回りは大きく、耳下で短く切った白髪はふさふさと波打っている。彫りの深いくっきりとした顔立ち。浅黒い肌に皺はあるものの、『婆』というにはそのピンと伸ばされた背に年老いた印象はない。
大きなセピア色の瞳が、眼光鋭くオヅマの様子を窺っていた。
「………デルゼ…?」
オヅマはかすかにつぶやいたが、喉が干上がってほとんど声にならなかった。
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