第二百三十六話 親の心、子の心

 準備をしていたオヅマが、再びルーカスに呼ばれたのは昼過ぎだった。


「よう、準備はできたか?」


 ルーカスは内心で、まさか朝に言ったことを昼までに済ませることなどできまいと高をくくっていたらしい。オヅマがほぼ準備を終了したと伝えると、自分で聞いておいて、目を丸くした。


「へ? お前、本当に準備終わったの?」

「当然でしょう。騎士であれば、戦場でもすぐに身支度できるようにと、訓練を受けるじゃないですか」

「まぁ、そうだが…」


 ルーカスは頷きながら、少しばかりヴァルナルが気の毒になった。良くも悪くも、有能な息子を持つと父親は寂しい思いをするらしい。これはヴァルナルだけのことでなく、ルーカスの実感でもあったのだが、今は感傷に浸る暇はない。


「ま、いいや。じゃ、一応これ持ってけ」


 机の上に置かれた二通の書状を指し示すと、オヅマは二つを手にとってまじまじと眺めた。


「一通が俺からの紹介状で、一通がヴァルナルからの親書だ」


 二通の書状の宛名は空白で、紹介状にはルーカスの署名、親書にはヴァルナルの署名があるだけだ。


「はい。あのー、で、そのお師匠さまのお名前は?」


 オヅマが尋ねると、ルーカスはニヤリと癖のある笑みを浮かべた。


「知りたいか?」

「知りたいか…って、知らないと向こうに行って、誰を訪ねればいいのかわからないでしょうが」

「そうだよな」


 ルーカスは言ってから、ため息をついて椅子に凭れこんだ。


「それについては、同行するマッケネン卿に頼んである」

「はぁ?」

「恨むなよ。それがお前のとの取引なんでな。十二歳の息子を送り出すとしては、せめて無事に向こうに辿り着くように…そこは確約しろとうるさくてな」


 オヅマはルーカスの言葉の中にある、いくつかの違和感と、ヴァルナルの過保護な干渉に、一気に渋面になった。


「……一人で行けます」

「決定事項だ」


 ルーカスはにべなく言った。オヅマにとっては鬱陶しいことだろうが、今回の急な決定について、このあたりがヴァルナルの譲歩の限界であったのだろう。


「ま、いいじゃないか。ヴァルナル本人が行くとは言わなかっただけ。お前のにつき合ってくれたんだと思え」


 ルーカスの軽い揶揄やゆに、オヅマの眉がピクリと上がる。


「なんか俺が我儘言ってるみたいに聞こえるんですけど、余計な迷惑をかけたくないから言ってるんです。レーゲンブルトからここに来るまででも、いくら黒角馬くろつのうまだったとはいえ、強行軍だったんでしょうから」


 理路整然とオヅマが反論すると、ルーカスはすぐに謝罪した。


「おぉ、すまんすまん。そうだな。お前はだものな。につき合ってやるくらいの度量はあるだろ?」

「…………」


 屁理屈において、ルーカスに勝る人間を見たことがない。オヅマは抗議するだけ無駄だと悟った。


 その後、旅装に着替えて西門の前に向かうと、マッケネンとヴァルナルが待っていた。まだ少し心配そうなヴァルナルに、オヅマは軽く吐息をついた。


「大丈夫だって言ってるのに…」

「わかっているが、なにかあってからでは遅い。ミーナが知ったら、同じように心配するだろうし。あぁ、ミーナからお前に、ことづかっているものがある」


 そう言ってヴァルナルは、若草色の細長い包みを渡してきた。

 オヅマは受け取りながら、なんとなく中身の想像ができて顔をしかめた。


「これのこと、なにか聞きましたか?」


 オヅマの問いにヴァルナルはキョトンとして首を振った。


「いや。お前が持っておいたほうがいいだろうと…自分にはもう必要ないと言っていた」


 オヅマは黙って、しばらくの間その包みを見ていたが、無造作に背嚢はいのうに突っ込んだ。

 用意されていた黒角馬くろつのうまに乗ってから、ハッと思い出す。


「そういえば、この馬、有難うございます」


 その馬は、オヅマがアールリンデンに来てしばらくしてから、ヴァルナルから送られてきたものだった。オヅマがずっと飼育して、調教もしてきた黒角馬で、ヴァルナルの騎乗馬であるシェンスの子供だ。


 ヴァルナルはフッと笑みを浮かべた。


「あぁ。お前がずっと世話してきて、慣れていたからな」


 希少種である黒角馬には騎士たちが優先的に乗る権利が与えられたが、この馬に限っていうなら癖が強くてなかなか乗りこなす者がいなかった。オヅマでさえもレーゲンブルトにいた頃には、なかなか乗せてもらえない文字通りのじゃじゃ馬だったが、こちらで一対一で世話するようになるとだんだんと懐いて、オヅマだけは大人しく乗せるようになった。


「名前はなんとつけたんだ?」

「カイルです」

「そうか。呼びやすいな。いい名だ」


 ヴァルナルは軽くカイルの首を撫でて、馬上のオヅマを見上げた。


「よもやお前が投げ出すようなことはしないと思うが…あまりにもつらく思うなら、無理せずに戻ってきたらいい」


 オヅマはヴァルナルの優しい言葉に、目をしばたかせてから、冷ややかに言った。


「母さんと反対のこと言うんですね」

「……え?」


 驚いたヴァルナルを、オヅマは一度睨むように見て、ふっと視線を逸らす。カイルの編み込んだたてがみを撫でながら、オヅマは硬い声音で話した。


「レーゲンブルトを出る少し前に、言われたんです。クランツ男爵家の一員として、小公爵さまのために、ちゃんとお役目を果たすように、って。それができなくて投げ出すなら、ここに戻ってくることは許さない…って」

「ミーナが……」


 ヴァルナルはつぶやいて目を伏せた。

 溜息と共に飲み込んだ唾は苦かった。やはり血のつながりのある親子であればこそ、突き放すようなことも言えるのだろう。ミーナにはきっとわかっているのだ。オヅマが一度決めたならば、きっと投げ出すような性格でないことは。

 ヴァルナルもオヅマとこの二年近くを過ごしてきて理解はしているつもりだったが、すべてをわかっていると言い切る自信はなかった。

 実の息子であるオリヴェルに対してすら、ようやくわかりあえたと、思えるようになったばかりなのだ。ましてついこの間、親子になったばかりのオヅマに、安易に父として接するのは、おこがましい気もする。


 だがオヅマには、ヴァルナルのその遠慮がかえって苛立たしかった。いっそ、お前なんぞ気に入らないと言ってもらったほうが、よっぽど気が楽だ。


「奥方様は、あれでめっぽう、厳しい方ですからね」


 マッケネンは二人の微妙な空気感をなじませるように、笑って言った。


「オヅマに限らず、ご家族の方は皆、一度ならず叱られておられるのではありませんか? もちろん、ご領主様も」

「私が?」

「この前も叱られておられたではありませんか。奥方様が執務室にコホルの根の薬湯やくとうを持って来られたときです」

「あれは……」


 ヴァルナルは渋い顔になった。チラと目をやれば、オヅマが訝しげに見つめている。


「なにかあったんですか?」


 マッケネンに問いかけるオヅマの声は、どこか心配そうでもあった。「喧嘩…?」


「いや、大したことじゃない」


 マッケネンが言う前にヴァルナルがあわてて弁明した。


「何度かうたた寝して、ちょっと風邪を引いたもんで、それを心配されただけだ」


 マッケネンも笑いながら同調する。


「そうそう。心配してくださっているというのに、やれ苦いとか、気合で追い払うとか妙な言い訳をして、最終的に怒られて、口をきいてもらえなくなっちゃったんですよね」

「あのあと、すぐにんださ…」


 ヴァルナルは苦い顔でつぶやく。

 ミーナの叱責と、コホルの根の薬湯の不味さを思い出すと、自然にそんな顔にもなってしまう。


 オヅマは母とヴァルナルのやり取りを想像して、思わずクスリと笑った。胸中で母が幸せであることに安堵する。しかしこれ以上、ノロケ話を聞く気もなかった。


「そろそろ行きましょう、マッケネン卿」


 手綱を握り、馬首を進路方向へと向ける。


「……気をつけてな」


 ヴァルナルは少し後に退さがって、二人を送り出した。

 オヅマはゆっくりとカイルを歩かせて、二三歩行ってから、振り返る。


「行ってまいります……ヴァルナル様」


 やや長く感じる沈黙のあと、オヅマは言った。

 ヴァルナルはしばしほうけたようにオヅマを見たあとに、ニッコリ笑った。


「あぁ、行ってこい。……待ってるぞ」

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