第二百三十五話 北宸宮の花

「………え……?」


 アドリアンはにわかに生じた違和感に、微かに声を上げる。

 しかし小さな声はかき消された。ようやく泣くのをやめたテリィが立ち上がって、憤然と抗議していた。


「それって貧民街の話だろう? 貴族の居住区は綺麗に整備されて、川だって定期的に掃除されているさ」


 しかしオヅマはフンと鼻で笑うと、傲然と言い放った。


「あぁ、そうだよな。掃除するたびに、沈められた白骨死体も出てきてちょっとした騒ぎになるんだろ? ましてヤーヴェ湖の底には数万と骨が積み上がってるんだろうぜ。毎夜毎夜、亡霊が湖から這い上がってくるから、北宸宮ほくしんきゅう魔除けの花シファルデリで囲われて、プンプン甘い匂いが鼻につく」

「…………」


 アドリアンも近侍たちも、そのとき何も言えなかった。

 彼らが作り出した沈黙は、それぞれに意味が違っていた。

 マティアスを始めとする近侍たちは、オヅマの話の後半の内容がよくわからなくて、意味を掴みかねてキョトンとしているだけだったが、アドリアンは一人、混乱していた。

 先程から自分の認識とオヅマの言葉に奇妙な齟齬を感じて、どう言うべきなのかを迷っている間に、サビエルが教師の来訪を伝えに来る。


「じゃ、俺、準備があるから行くわ。先生らに伝えておいてくれ。あ、それとクランツ男爵は明日の修練に来てくれるってさ」


 オヅマは早口に言うと、逃げ出す勢いで出て行った。

 アドリアンが声をかける暇もない。

 まるで嵐が去ったあとのような空白の沈黙がしばし続いたあと、マティアスがコホリと咳払いした。


「まったく。授業を受けたくないから、今日すぐに出るなどと言ったのではないのか、あいつ……」


 鹿爪らしい顔で小言を言いながら、手早く用意してあった本を抱え、隣の講義室へと向かっていく。テリィも同調しながら続いた。

 アドリアンはのろのろと準備しながら考えていた。


 オヅマは帝都に行ったことはない ―― はずだ。

 それは当人から確かに聞いた。

 生まれてこの方、一度も行ったことなんてない。行きたいとも思わない、とも。

 でも、だとすればなぜ、知っているんだろうか?


 帝都は運河だらけの街で、確かに貧民街と呼ばれるような一部集落においては、夏ともなれば川の水がひどい臭気を放ち、疫病もはびこる。黴臭い、せせこましい街なのだ。

 貴族の居住地では、そのようなことのないように定期的に川さらいが行われる。

 その時に白骨死体が出るというのも、実際にある話だ。

 それに何より……


「小公爵さま?」


 考え込んでいるアドリアンに、おずおずと声をかけたのはキャレだった。

 アドリアンはハッと我に返った。


「あ、ごめん」

「いえ。考え事をされているのに、邪魔をしてすみません」

「いや……いいんだ」


 言ってから、アドリアンはキャレに尋ねた。


「キャレ、さっきのオヅマの話だけど…おかしいと思わなかった?」

「え? あ……すみません。ちょっと内容がよく……私には……理解できなくて」

「いや、オヅマは帝都に行ったことなんかないはずなんだよ。それなのに、帝都のことをよく知ってるみたいに言ってなかったか?」

「それは……」


 キャレはオリーブグリーンの瞳を落ち着きなく動かし、必死で考えながら答えた。


「帝都に行ったことのある騎士などから、聞いたりしたのではないですか? 私も、帝都に行ったことはありませんが、水の都と呼ばれるところですし、あちこちに運河があるって、聞いてます。皇宮にも確か舟で行くことができるのだと聞いたことがあるのですが……」

「あぁ……うん」


 アドリアンは少しだけ落胆する。

 自分の違和感を共有する人は近侍の中にいないようだ。準備をして講義室に向かい、授業を受けながらも、まだアドリアンは考えていた。


 北宸宮ほくしんきゅう ―― それは広大な皇宮の中にある、皇帝一家の住まう場所だ。

 ここは皇帝一家の完全に私的な領域で、皇宮の中でも、もっとも厳重に警備されている。それこそ宰相であろうとおいそれと入れる場所ではない。当然ながら、公爵家の騎士団の一騎士などが立ち入れるはずもない。

 皇帝陛下の覚えめでたいヴァルナルであっても、さすがにここに呼ばれたことはないだろう。あったとしても、北宸宮でのことは他言無用が不文律で、真面目なヴァルナルであれば、行ったことすら誰にも話さないはずだ。

 それに北宸宮という呼び方自体、あまり一般的に知られているものではないから、キャレが理解できなくても当然だ。きっと反応を見るに、マティアスとテリィも似たような感想だったのだろう。


 なのに、オヅマは確かに言った。

「北宸宮」と。

 当たり前のように。

 しかも……


 ―――― 北宸宮は魔除けの花シファルデリで囲われて、プンプン甘い匂いが鼻につく…


 北宸宮の中は、皇帝の寝居である主宮、きさきたちの住まう後宮、皇太子の居住する皇太子宮がある。

 アドリアンは前に一度だけ、皇太子宮に行ったことがあった。

 まだ、さきの皇太子であったシェルヴェステル殿下が生きておられた頃だ。

 オヅマの言う通り、確かに宮殿の周囲には、シファルデリという花が甘ったるい匂いを漂わせていた。


 長く伸びた白の花蕊かずい、ヒラヒラとなよやかに風に揺れる純白の花びら。

『魔除け』というには儚げな印象の花だったが、一斉に咲くと夜には仄かに光るのだと言っていた。そのため、闇夜を守る光りの花として、魔物を退けると伝えられるようになったのだろう…と。

 アドリアンは後にも先にも、北宸宮でしかシファルデリを見たことがない。



 ―――― どうしてこのお花をいっぱい植えているのですか?



 アドリアンが尋ねると、皇太子殿下シェルヴェステル悪戯いたずらっぽく微笑みながら、小さな声で言った。



 ―――― 内緒だよ、アドリアン。北宸宮にはね、が大勢いらっしゃるんだ。いちいち相手しているのも大変だから、この花を渡してお帰りいただくんだよ……



 あのときは意味がわからなくて、そのままにしていた。

 今さっき、オヅマに言われたときに思い出し、同時にようやく理解したのだ。

 過去からのお客様 ―― それはつまり死んだ亡霊のことを指していたのではないか……?


 一つの疑問の解消は、新たな疑問を生じさせる。

 いったいどうして、オヅマはそんなことを知っているのだろう?


「…………」


 アドリアンは黙念と考え込み、教師からの問いかけも耳に入らなかった。

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