第二百三十四話 善は急げ

「なんだって!?」


 ルティルム語の授業が終わり、次の授業までの間、勉強室で読書をしていたアドリアンは、ようやく戻ってきたオヅマの言葉に目を剥いた。


「それはつまり、新年の上参訪詣クリュ・トルムレスタンの同行禁止ということなのか?」


 次の授業の予習をしていたマティアスは立ち上がり、オヅマの方に寄ってきて、強張った顔で尋ね返す。

 オヅマが頷くと、テリィがそれ見たことかとばかりに言った。


「やっぱり。そんなことになるんじゃないかと思ったよ」


 キャレはにわかに張り詰めた雰囲気に身を竦ませた。

 いつもは温厚なアドリアンが厳しい顔になっている…。 


「誰がそんなことを決めたんだ!?」


 アドリアンが怒鳴りつけるように問うと、オヅマは平然と答えた。


「ルーカスのおっさん」

「ベントソン卿が? どうして…」


 公爵邸において、自分を次期公爵として扱ってくれるルーカス・ベントソンは、アドリアンにとってヴァルナルと並んで信頼できる大人だ。そもそもオヅマをアドリアンの近侍として推挙したのも彼であるのに、なぜオヅマに新年の上参訪詣クリュ・トルムレスタンを禁じるなどと言い出したのか…?


 そのアドリアンの問いに答えるかのように、マティアスがつぶやいた。


「やはり、さすがにベントソン卿も、お前の行いを危惧されたということか……」

「どういうこと?」


 アドリアンが鋭く問うと、マティアスはビクリと身を震わせたものの、コホンと咳払いしてから、鹿爪らしい顔で述べた。


「それは、オヅマの日頃の行動を思い返せば小公爵さまとて理解できると思います。今とても…」


 言いながらマティアスは横目でオヅマをジロリと睨みつける。

 椅子に大股で跨がり、反対向き ―― 背もたれに腹をあてて座るなど、無作法極まりない。しかしオヅマはマティアスの非難をこめた眼差しも、どこ吹く風とばかりに無視していた。

 マティアスは苦虫を噛み潰し、やや大きな声で続けた。


「…多少は礼儀作法を身につけたとはいえ、小公爵さまに対する気安い態度、先の公爵閣下への謁見においても無礼があったのは覚えておられましょう? 帝都においては、今よりも厳しい目にさらされるのです。オヅマの不用意な行動で、小公爵さまに迷惑がかかっては一大事、と……ベントソン卿も考えられたのでしょう」


 テリィもうんうん、と頷いて続ける。


「あちらに行けば、グレヴィリウス家門だけでなく、多くの貴族が集まるのだものね。下手したら皇帝陛下にだって、拝謁するかもしれないのだから」

「そんな、おそれ多い……」 


 キャレは皇帝陛下という言葉そのものにすらも恐懼して声が震えた。

 しかしマティアスは重々しく首肯しゅこうする。


「確かに。小公爵さまは皇家こうけ主催の園遊会などにも招かれるだろう。そのときには、我らも付きしたがうことになる。畏れ多くも皇家の方に対して、万が一にもご不興を買うようなことがあれば……」

「あれば…?」


 キャレが怖々と尋ねると、テリィが手刀をつくって自分の首を斬る素振りをする。キャレは真っ青になった。


 アドリアンは近侍たちのやり取りをジリジリした怒りを持って見ていたが、ふとオヅマが何も言わずにいることに気付く。見れば、ニヤニヤと笑っている。

 いつものオヅマであれば、テリィにもマティアスにも一言二言は言い返しているはずだ。


「オヅマ! なにを笑ってるんだ」


 アドリアンが怒鳴りつけると、オヅマは椅子の背もたれに顎をのせて、彼らのやり取りを面白そうに眺めていたのだが、うーんと背伸びした。


「いやいや、確かに言われてみれば…と思ってさ」

「なにを他人事みたいに…もういい!」


 アドリアンは憤然として立ち上がると、ドアへと歩いて行こうとして、オヅマに腕を掴まれた。


「離せ! ベントソン卿に抗議しに行く!!」

「いや、待てって。冗談冗談」


 オヅマは立ち上がると、落ち着かせるようにアドリアンの肩を叩いた。


「冗談?」

「いや…帝都に行かないってのは本当なんだけど。理由は俺の素行云々じゃねぇんだ」


 言い聞かせながら、オヅマはアドリアンを再び椅子に座らせる。


「どういうことだ?」


 マティアスが怪訝そうに問うと、オヅマは自慢げに言い放った。


「修行だ」

「修行?」


 キャレが問い返す。「修行って……あの、剣士とかが山に籠もったりするやつですか?」


 幼い頃に読んだ絵物語を思い出して尋ねると、テリィが一笑に付した。


「馬鹿じゃないの。いつの時代の話だよ。今どき、そんな時代錯誤なことしてる人間がいるもんか」

「まぁ…山に籠もるかどうかは知らねぇけど……」


 オヅマは薄っすらとした笑みを浮かべてテリィを見ると、スゥと息を吸い込んだ。

 テリィは瞬時にいつか味わった恐怖感を思い出し、一歩後に退がったが、そのときにはオヅマはやはりもう目の前に来ていた。避ける間もなく、バチン! と思いっきりおでこをはじかれ、目に火花が飛ぶ。

 うぅーっと呻きながら、テリィはおでこを押さえて丸く縮こまった。


 キャレはまたもグズグズと泣き始めたテリィを白い目で見た。

 いつもながらというか、どうしてこの人は無自覚に人を怒らせるのだろうか?

 自慢げに「修行だ」と言ったオヅマの態度を見ていれば、その『修行』を馬鹿にするようなことを言えば、不快に思われることなどわかりそうなものなのに。


『泣き虫テリィ』に辟易している近侍たちは、誰も彼を慰めようとしない。

 アドリアンもチラと見ただけで、すぐにオヅマに問うた。


「修行? もしかして…稀能きのうの?」


 オヅマはニカッと笑った。


「そう! 領主様の師匠のところに行けってさ!」


 アドリアンはあまりに嬉しそうなオヅマの様子に、何も言えなくなった。もちろん、話が急すぎて、考えが追いつかなかったのもある。


「キ…ノウ、というのは…なんですか?」


 キャレが尋ねると、オヅマは鼻白んだように言った。


「なんだよ、キャレ。お前、ファルミナの騎士団で多少は訓練を受けてただろうに、稀能のことも知らないのか?」

「えっ、あっ…す、すみません」


 キャレはあわてて謝ったが、アドリアンがとりなすように言った。


「仕方ないよ。稀能を持った騎士なんて、そうはいない。グレヴィリウスの家門の中でも、稀能をもった騎士なんて、ヴァルナルだけなんだから」

「へ? そうなの?」


 驚いたオヅマに、マティアスが付け加える。


「正直、テリィの言ではないが、今じゃおとぎ話に近い話だ。私も実際にその技を見たこともないし、本当にあるのかどうか疑わしく思っていたが…お前がそんなことを言うからには、クランツ男爵の稀能というのは、本当らしいな」

「当たり前だろ! どれだけ凄いか……カールさんの千本突きだって、蝶が舞ってるみたいに見えるらしいんだからな! 今度見せてもらえ!!」


 興奮したように言うオヅマを、今度はアドリアンが落ち着かせた。


「まぁまぁ、それはともかく。じゃあ、君はヴァルナルのお師匠様のところに、稀能の修行のために行くから、帝都には行かないということか?」

「そ! じゃ、そういうことで!」


 オヅマがそのままご機嫌に出て行こうとするので、アドリアンはあわてて腕を掴んだ。


「ちょっと待て! いつ行くっていうんだ!?」

「さぁ? おっさんから紹介状もらったら、すぐにでも出ようかと思ってるけど」

「すぐ…って、まさか今日!?」

「善は急げって言うからな~」

「修行に行くことがことなのか、お前には…」


 マティアスがややあきれたようにボソリとつぶやく。

 キャレも内心で頷いた。騎士の訓練でも厳しくて音を上げそうになるのに、それよりも厳しそうな修行なんて、嬉々として行くオヅマの心境が理解できない。


 しかしオヅマはむしろそんなマティアスらを見下すように言った。


「どうとでもいえ。俺は帝都になんか、これっぽっちも行きたいと思わないんでね。あんな汚ねぇ川ばっかの湿気た街、黴が生えそうだ」

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