第二百二十六話 キャレと小公爵(1)
キャレがアールリンデンを訪れて、早くも一月が過ぎていた。
冬芽は温かみを増してきた日差しの中で、徐々に青く伸び、春告鳥が物慣れぬ様子で鳴き始める。
ノックの音にキャレが扉を開けると、立っていたのはアドリアンだった。
「しょ、小公爵さま」
驚いて声を上げるキャレに、アドリアンが「シッ」と唇の前に指をたてる。
キャレはその様子に声を潜めた。
「どう…なされましたか?」
「ちょっと、来てもらえるかな?」
「は…はい」
キャレが頷くと、アドリアンはニコリと笑って自分の部屋へと入っていく。キャレは首を傾げつつも、その後に続いた。
今は午後からの勉強が終わり、晩餐までの自由時間だ。近侍たちはそれぞれに過ごしている。
自室に籠もる者、図書室へ行く者、修練場で自主訓練する者、様々だ。
キャレはもちろん、自室に籠もって、自分だけ合格点をもらえなかった歴史の復習をしていた。
「そろそろ
アドリアンは部屋に戻ると、くるりと振り返ってキャレに言った。
穏やかな笑みを浮かべているが、その端正な顔立ちには、相変わらず慣れない。
キャレはドギマギしながら頷いた。
「はい。色々とご迷惑をおかけしております」
「そんなことはないよ。キャレが来てくれたお陰でオヅマとマティの喧嘩が減ったし」
「……そうなんですか?」
今でも顔を合わせれば一日に一度は必ず、軽い口喧嘩が始まるのに、あれで減ったのか…とキャレは内心で呆れる。
いったい、どれだけ喧嘩していたのか、あの二人。
「マティもオヅマも、キャレにじーっと見られていると、なんだか気になっちゃって怒る気が失せちゃうんだって。不思議だね」
「はぁ……?」
その理由はキャレにもわからなかった。ただ、いつも「またやってるなぁ」と半ばあきれて、半ば感心して見ているだけだ。
曖昧な返事しかできないキャレに、アドリアンは話を続ける。
「オヅマが言うには、マリーに見られてるみたいだって」
「マリー?」
「オヅマの妹だよ。オヅマが一番頭が上がらない相手」
何気なく出てきた『妹』という言葉に、キャレの顔は固まった。それでも必死に笑って、無理やり口を動かす。
「い…意外、ですね。オヅマさんにそんな相手がいるなんて…」
「そう思うよね。僕だって、日頃のオヅマを見ていたら、怖いものなしとしか思えないんだけど、マリーには本当に弱いんだ。まぁ、マリーが強いっていうのもあるんだけど」
「小公爵さまは、マリー…さんとお知り合いなのですか?」
「うん。レーゲンブルトにいる頃にね、とても世話になった。明るくて優しくて、いつもニコニコ笑ってる可愛い子なんだ」
キャレはアドリアンと同じように笑顔を浮かべながら、心がザワザワと波立った。
「そう…なんですね。小公爵さまにとっても妹のような方なのでしょうか?」
「うーん…」
アドリアンは考え込んでから、ふと沈んだ顔になった。
「僕は…本当の妹に会ったこともないからな…」
自嘲したようにつぶやくアドリアンの大人びた表情に、キャレは胸をつかれた。
アドリアンに異母妹がいることは、テリィから教えられた。
テリィは噂好きの母親が、女友達相手に喋っているのを聞きかじっていて、その手の情報に詳しかった。
「公爵様が夫人を亡くして一年ほどした頃に、亡くなった夫人の遠縁の娘が夫人そっくりだって聞いて、一度おてつきってやつになったみたいなんだ。でも結局、公爵夫人とは比べ物にならなくて、すぐに離れに追いやられたみたい。その後に娘が生まれたんだけど、公爵様は見ることもなく、最終的には公爵邸からも追い出しちゃったらしいよ」
キャレはその娘について少しだけ同情した。
自分と同じように婚外子というだけで、虐げられる。それは大公爵グレヴィリウスにおいても同じらしい。
話しかけづらくなって黙り込むと、アドリアンがハッと我に返った。
「あ、ごめん。来てもらっておいて、忘れるところだった。こっちだよ」
言いながらまたアドリアンが部屋の中を横断していって、隣の寝室に通じるドアの把手を取った。
キャレはドキリとなった。そこは近侍であっても、おいそれと入れる場所ではなく、完全なるアドリアンの
「え? あの……」
キャレはさすがに躊躇したが、アドリアンは扉を開いたまま首をかしげて待っている。
「では、失礼します」
キャレはおずおずと寝室に入った。
アドリアンに気付かれないように、目だけを忙しなく動かして部屋を見回す。
その正直な印象は ―――― 案外狭くて…暗い。
ファルミナにいた頃、キャレは姉たちの寝室を掃除したことがあったが、ここよりもずっと広くて明るく、絢爛豪華だった。
部屋には花が飾られ、家具は金メッキの装飾が施されたきらびやかな白塗りのもので統一されていた。
一方、この部屋の内装は姉たちの部屋に比べると、みすぼらしいとまでは言わないまでも、非常に質素に感じられるものだった。
絨毯はモティケ織の豪奢なものではあったが、紺色をベースにした落ち着いた色合い。家具も金メッキの飾りなどはなかったが、つややかに磨かれた深いマルーンの色合いのそれらは、いっそ重厚な趣であった。バルコニーに面した窓のカーテンは、深い緑色に金糸で細かな刺繍が施され、いかにも重たそうな生地だ。
家具の数も天蓋ベッドに姿見、三脚の洗面台、
正直、大グレヴィリウスと呼ばれる公爵家の若君の寝室にしては簡素に思えた。
しかし『寝室』ということだけで考えるならば、あんなに広くて仰々しい場所で寝るよりは、ずっと落ち着いて眠れる気はする。
アドリアンはぼんやり立っているキャレの横を抜けて、窓と反対にある両開きの扉を開け放った。
「こっちに来て」
キャレはますます訳が分からなかったが、言われるままに動くしかない。
アドリアンに
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