断章 ― 優しき主君 ―

 レーゲンブルトでベネディクト・アンブロシュと出会った頃から、オヅマは彼の出てくるを頻繁に見るようになった。


 長弓ながゆみのことも、その時に見たの一つだ。



*** ** ***



「本日より、閣下から君の後見を頼まれた。閣下直々に特に頼むと言われるなど、君は相当に期待されているようだ。精進したまえ」


 紹介されて初めて会ったとき、この城の中ではめずらしい部類の人間に、オヅマは少々戸惑った。


 ベネディクト・アンブロシュ卿。

 快活な声と、実直そうな薄緑の瞳。柔らかな栗茶色マルーンの髪は、の中ではもう少し長かった。紐で結んでも収まりが悪かったので、切ったのかもしれない。


 オヅマを見たときに、聡明な彼にはもうわかっていたはずだ。

 目の前で無愛想に立っている少年が、なのかは。

 それでも彼は深く尋ねることもせず、快くオヅマの身柄を引き受けた。独身であるのに、養子として。

 その日からオヅマは、ただのオヅマからオヅマ・アンブロシュの名前を与えられた。


 当初、オヅマはベネディクトを嫌っていた。

 オヅマにとってあるじとして忠誠を誓った相手は、『閣下』『殿下』と人々から尊崇を込めて呼ばれる唯一人だけで、それ以外は目に入ることすら邪魔だった。

 一日でも早く『閣下』の役に立ちたかった。そばにいることを許される、信頼されるの一人となることが、オヅマにとって最大の目標だった。


 そうやって思考すら操られていることに気付きもせず ―――


 長弓を習得したいと思ったのは、大人ですらも扱いづらいこの武器を、子供の自分が使えるようになれば、きっと喜んでもらえるだろうと思ったからだ。いかにも背伸びしがちな、馬鹿なガキの考えそうなことだ。


 ベネディクトは反対した。誠実な大人としては当然の反応だった。


「まだこの子にははよぅございます、閣下!」


 しかし閣下と呼ばれた男は、チラとだけベネディクトを見て、不満顔のオヅマに微笑みかけた。 


「本人にやる気があるのだから、やらせてみればよかろう」

「しかし、こんな子供がやれば、体を痛めます。下手をすれば、しばらく起き上がることも……!」


 男はベネディクトにみなまで言わさず、その先の言葉を捕えるかのように優雅に指を動かした。


「心配は無用。コツさえつかめば、子供であっても使える。乃公だいこうの昔も、同じ年頃であったが、射ることができた。アンブロシュ卿のように甲冑を着た騎士を射殺いころすことはできずとも」


 ベネディクトはオヅマになまぐさい話を聞かせたくなかったのかもしれない。口を噤み、仕方なく男の前から引き下がった。


「さぁ、オヅマ。とりあえずはいつもの弓を射るときと同じように…そう、足はもう少し開くとよい。重心を低くして、根を張るように……」


 を見るが混乱するのは、いつもこの男が親切であったことだ。


 あれほどの嫌悪を植え付けておきながら、男がオヅマに対して直接的に暴力を振るったことはない。衆人の前で面罵することもなかった。

 ただの家臣の養子である騎士見習いの少年に、長弓を自ら教えてくれるなど、本来の男の地位からすれば有り得ないことだった。周囲の人間はそれがどれだけすごいことなのかを繰り返しオヅマに話し、オヅマに男への憧憬と忠誠を植え付けた。……


「己の中に一つの柱をつくるようにして、まっすぐに立つのだ。この体勢がしっかり出来ねば、弓引くこともできぬ。基本姿勢はしっかりと叩き込め。これは長弓に限らず、通常の弓においても同様だ」

「はい」


 頷いて、いよいよ矢をつがえて、弓を上げ、つるを……引こうと思うが、まったくビクリとも弦は動かなかった。


「ハッハッハッ!」


 男は大笑いをしたあと、オヅマの手に自分の手を添えて、丁寧に教えてくれる。


「力点を置く場所が大事なのだ。己の力で無理に弦を引こうと思うな。弓を遠くへ押せ」


 わかりやすく、的確に。

 弓を持つ手の握り形までも詳しく教えてくれる。

 最初に弦を引けたのは、男の力によるものだった。ぴったりとオヅマに寄り添って補助しながら指導は続く。


「背の骨を近く……そう、背の上に二つ、コブのような骨があるだろう? あれを寄せるように。姿勢は動かすな」


 間近にかかる息を、オヅマは男が矢を射る瞬間を慎重に待った。


「……よし」


 落ち着き払った声が耳元に響くと同時に、つがえた矢を放つ。

 トスリ、と的の中心よりやや右に刺さった。


「ふむ。今度は一人でやってみよ」

「はい」


 オヅマは言われた通りに、先程の感覚を丹念に辿りながら矢をつがえ、弓を構える。さっきはあれほど硬く、ビクリとも動かなかったはずの弦が容易に引っ張れたことに、オヅマは内心で驚き喜んだ。

 チラ、と男を窺うと、微笑みをたたえてオヅマを見ている。


 この先のオヅマの考えなど、わかりやすいほどだったろう。

 親切に教えてくれた男に、いいところを見せたかった。的にしっかりと矢を射て、褒められたかったのだ。


 やじり先を見据えて的に狙いをつけて、放つ。

 しかし矢は的の前で落ちた。 

 見ていた何人かの騎士たちから失笑が漏れ、男のお付きの道化師ヴァルガーはおどけた様子で、からかった。


「やれ! まだチビッコ騎士には無理かいのぅ!!」


 オヅマよりも背の低い小人であるのに、顔は醜悪な老人で、いつも赤やら青やら黄やらが入り混じった派手な服を着ていた。ケケケケ、と体をひねって大笑いすると、とんがり帽子の先、靴の先、手首足首につけた鈴がチリンチリンと耳障りな音をたてる。

 ギロリとオヅマが睨みつけると、「おォ~、怖や~怖や~」とわざとらしく体を震わせて、男のマントの影に隠れた。


「オヅマ」


 深みある穏やかな声が呼びかけてくる。「弓の真ん中より少し下につがえるのだ」と、わかりやすく、詳細に指導してくれる。


 オヅマは自分が誇らしかった。

 今、この場で男は自分だけを見てくれている。それだけで震えそうなくらいに嬉しかった。

 昂揚し、どんどんと力が満ちていくのに合わせて弦を引き、弓を構える。


「美しい動作は正しい結果を生む」


 詩を詠ずるかのような男の声。

 オヅマの耳には道化師ヴァルガーの鈴も、騎士たちの冷笑まじりの囁きも聞こえなかった。

 男の ―― あるじの言葉だけが聞こえていた。

 今度こそ成功させようと、的の中心を睨み、狙いを定めると、男はまるでオヅマの心底までも洞察したかのように言った。


「当てようと思わず、正しく射ることに集中せよ」  


 この瞬間、オヅマの頭は空になった。

 自ら感じた歪みを咄嗟に修正して、矢を放った。

 ビュン、と鋭く飛んだ矢は、的のほぼ中心に刺さる。


 パン、パン、と男がゆっくりと拍手する。

 驚いて固まっていた道化師は、ハッと我に返ると、


「やったー、やったー! やったゾイ! チビ騎士様が当てたゾイ!」


と、オヅマの周りをクルクル回りながらはしゃいだ。

 男はオヅマにゆっくりと近寄ると、道化の首根っこを掴んで、ポイと投げ捨てる。ヒィと道化は悲鳴を上げながら、地面を転げてぐったりのびた(フリをした)。 


「よくやった、オヅマ。見事なものだ」


 成功に興奮して上気したオヅマの頭を優しく撫でて、褒め称える。

 しかし、すぐにバサリとマントを翻して振り返ると、心配そうに控えていたベネディクトを見て目を細めた。


「だが、アンブロシュ卿の言う通り、無理は禁物。成長に合わせて徐々にせねばな。感覚を忘れぬよう、三月みつきの間、長弓を射るのは一日三本までとせよ」

「大丈夫です!」

「そのようなことを言って、今晩にでも、卿の手を煩わせることになるであろうよ。後のことは頼んだぞ、アンブロシュ卿」

「はっ!」


 ベネディクトは自分の言葉を無視することなく、きちんと理解してくれていた主に、今更ながら感動した。胸を打って忠義を刻み、恭しく騎士の礼をとる。


 オヅマは自分への別れの言葉もないままに、去っていく男の姿をずっと見つめていた。その背に揺れる、漆黒のマント。染め抜かれた真紅の椿、金の目の雄牛、鉤爪の鎖の紋章。


「いつかお前も、あれを身に纏う日がくる」


 ベネディクトがオヅマの肩に手を置いて言った。「それまでに閣下のお役に立てるよう、励まねばな。お互いに」


 それまでベネディクトはオヅマの保護者役として自分の役割を考えていたらしい。だが、この時から彼はオヅマを自分と同じ騎士として扱い、接することにしたのだと……後に語った。

 この変化は少しだけオヅマにも伝わったのか、それまでベネディクトに対して一切心を許すこともなく過ごしていたが、徐々に彼と会話するようになった。やがて離れて暮らすマリーのことも話すようになり、最終的に彼はマリーも一緒に引き取って育ててくれた。

 オヅマはベネディクトから男に関する武勇伝を聞き、ますます男への尊敬を深めた。時々に会う男が、高い身分であっても自分を見下すことなく、優しく接してくれる態度に、いつも胸を熱くした。


 この時はまだわかっていなかった。


 男の期待に応えることが、どんどんと自分を追い込んでいくのだということを。

 それは自分だけでなく、周囲の人間までも不幸にしていくのだと。


 一年後、オヅマの身体能力が優秀であることを認めた男は、いよいよ本格的な訓練を課した。

 アンブロシュの邸宅から再び城へと戻り、稀能きのう『千の目・まじろぎの爪』を習得するため、リヴァ=デルゼによる非道な修練が始まった。


 オヅマの笑顔はどんどんとなくなった。

 時折、アンブロシュの家に戻っても、以前と変わり果て沈んだ様子のオヅマに、ベネディクトは幾度となく心配して声をかけてくれていたが、オヅマにもう彼の声は届かなかった。………

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