第二百十九話 善良なるもの、それは…
「気にするな」
オヅマはアドリアンに言った。強い口調に迷いはない。
訓練を終えて、次の授業まで小休憩となっていた。
それぞれが自室に戻ったが、オヅマは汗をかいた衣服を着替えると、すぐにアドリアンの部屋を訪ねた。
アドリアンは当然ながら浮かない顔をしていたが、その憂いを払うようにオヅマは毅然として言った。
「俺らの目的は達成できてる。今日は元々、ヨエル卿を弓の先生にすることと、ヤミ卿に接触できればよかったんだから」
それは、ルーカス・ベントソンがサフェナ=レーゲンブルトに行く前に、アドリアンに書いて寄越したメモのことだった。
曰く ―――
『ヨエルを師とし、ヤミ・トゥリトゥデスを引き入れるべし』
脆弱な支持基盤しか持たない小公爵のために、ルーカスとしては今のうちからアドリアンの下で働く人間を厳選して、確保しておかねばならないと考えたのだろう。
***
ハヴェル主従が去ったあと、オヅマは当然のこととして、自分たちの弓の指導役を選んだ。ヘンスラーはブスッとしていたが、自分が負けたことは間違いないし、約束は約束だ。「好きにしろ」と言い捨てて、去ってしまった。オヅマはかねての計画どおりに、ヨエルとヤミに指導を任じた。
「
ヨエルは素直に拝命したが、ヤミは面倒そうに首を振った。
「私は人を教える任ではありません」
「手取り足取りとは言わないさ」
当人に言われるまでもなく、オヅマにもヤミが指導者として適任でないことはわかっていた。それでもルーカスがああまで指示してくるのであれば、彼と接点を持つことでの利点があるのだろう。
幸いにもヘンスラーが彼らを選んでくれたおかげで、指導役をお願いしてもそうは不自然に思われない。おそらくルーカスは以前から、彼らが弓部隊の中での実力者であることを知っていたのだろう。
「アンタは前で手本を示してくれるだけでいい。俺らは見て盗む」
「……できるものなら」
ヤミは冷たく言ったが、アドリアンは微笑んだ。
「ありがとう、トゥリトゥデス卿」
***
当初の目的は果たされたに違いなかった。
それでもアドリアンは憂鬱だった。
「君……いつの間にハヴェル公子と知り合いになっていたんだ?」
暗い顔で尋ねると、オヅマがキョトンとなる。
「あれ? 言ってなかったか? ルンビックの爺さんに頼まれて、初めて本館に行ったときに会ったんだよ」
「それ、いつの話?」
「さぁ? こっちに来たばっかくらいかな?」
「………」
アドリアンは難しい顔で黙り込む。
ハヴェルは気安い様子でオヅマに接していた。まるでずいぶん前からの知り合いであるかのように。
「会って、なんの話をしたの?」
「なんの話……って」
オヅマは珍しく機嫌が悪そうなアドリアンに戸惑った。
その時にしていた話はアドリアンの亡くなった母のことだ。それも、その母と、父である公爵と、幼いハヴェルの描かれた絵の話。
なんとなくそのまま正直に話すのもためらわれる。
「本館で迷子になってたから、道を聞いたんだよ。ルンビックの爺さんの執務室まで案内してもらった、ってだけだ」
嘘ではない。――― すべてではないが。
「案内してもらった? 彼が君を?」
アドリアンはひどく意外そうに尋ね返す。
訝しんだ様子でオヅマをまじまじと見つめた。
「それ、本当にルンビックの執務室だったのか?」
「あぁ。ちゃんと鍵も開いたし」
「嘘は教えなかったんだね……」
「嘘をつきやがったのは、鬱陶しい従僕の野郎だよ。それに女中もぜんぜん教えてくれねぇから、あっちこっち行って迷子になっちまって……」
「そう……」
アドリアンは沈んだ顔になって相槌を打つと、陰気に言った。
「それで君はハヴェル公子に親切にされて、嬉しかったんだろうね」
「は?」
オヅマはまったく訳がわからなかった。なんだっていきなり、自分が非難されているのだろう?
「なに言ってんだ、お前は」
困惑しきったオヅマをアドリアンはジロリと見てから、ハァと嘆息して背もたれに倒れ込んだ。
「みんなそうなんだ……」
「なにが?」
「みんな、ハヴェル公子のことが好きなんだよ。この屋敷の人間は。従僕も女中も、騎士たちも。みんなにとって、彼はいい人なんだ」
アドリアンは無表情に、抑揚のない声で言い放つ。
めずらしく投げやりな様子のアドリアンに、オヅマは首をかしげた。
「お前は?」
問いかけると、アドリアンは鈍くオヅマを見つめる。
「僕?」
「お前はアイツのこと、嫌いなのか?」
「…………」
アドリアンはどんよりと絨毯の模様を見つめていたが、キュッと唇を噛みしめたあとに、ボソリとつぶやいた。
「……嫌いじゃない」
「なんだ、そうなのか」
オヅマが気抜けしたように言うと、アドリアンはまた眉をしかめた。
「嫌いじゃないけど、好きにもなれない。今日のことだって、彼が一筋縄ではいかない人間だとわかったろう?」
「まぁ、それはな。上手に持っていかれた」
「呑気だな、君は。それとも君もハヴェル公子に心酔したのか? ヘンスラー卿のように」
イライラした様子で言ってくるアドリアンに、オヅマは目を丸くした。本当に今日のアドリアンは珍しい。
「なーに苛立ってんだよ、小公爵。さっきも言ったろ? 今日はヨエルの爺さんとヤミ卿に繋がりを持てれば目的は達成。それ以外のことなんて、大したことじゃねぇよ」
言いながらピシリと軽くアドリアンの額を指ではじく。
痛そうに顔をしかめて、アドリアンは少しだけ赤くなった額を押さえた。しばらくそのまま考え込んでから、おずおずとオヅマに尋ねる。
「オヅマ……君は、いなくなったりしないよね?」
「はぁ?」
「僕から離れたりしないよね?」
オヅマはフッと笑った。
いつもは大グレヴィリウス公爵家の若様として、肩肘張って大人びたことを言ったりしているが、まだまだ
「バーカ。誰のために、アールリンデンくんだりまで来たと思ってんだよ。ルンビックの爺さんに堅っ苦しい礼儀作法まで仕込まれて」
「……ごめん。無理させて」
小さな声で謝るアドリアンに、オヅマは決然と言う。
「無理はしてねぇ。必要だからやってるだけだ」
アドリアンは弱々しく笑ってオヅマを見てから、また目を伏せた。
「僕は……自信がない」
消え入りそうな声でつぶやく。
「なにが?」
「ハヴェル公子はいい人なんだ。今日のことだって、僕にとっては不快だったけれど、周囲の人間からすれば、彼の方が公明正大で優しい人間なんだと思うだろう。誰もが彼を認める。それは当然のことなんだ。僕だって、
その先に続く言葉を言うことができなかったのだろう。
アドリアンは口を噤むと、膝の上で組み固めた両手に目線を落とす。また唇を噛みしめてから、力なく言った。
「ハヴェル公子はいい人なんだよ。…………たぶん」
オヅマはアドリアンの言葉と、ハヴェルに会ったときのこと、今日のことを反芻してから、皮肉げに顔を歪めた。
「まぁ、確かにお前の言う通り、いい人かもしれねぇけど……」
一旦言葉を切って、アドリアンの肩をポンと叩く。
「俺はああいう笑い方をする奴を、無条件に信じる気はねぇよ」
「オヅマ……」
「知ってるか? 優しい顔で、優しい声で、優しいことを言ってくる奴が、必ずしも善良な人間とは限らねぇんだぜ」
アドリアンはハッと顔を強張らせた。
それはまさしく、アドリアンがいつもハヴェルに対して感じる、得体の知れない不気味な印象を肯定してくれる言葉だった。
「君も……そう、思うのか?」
「ハヴェルに対してはまだわからねぇ。だから、これからは敵になるにしろ、ならないにしろ、知っていかねぇとな。苦手だからって避けてたら、手の打ちようもないだろ? ああいうのは、相手するとなったら面倒だ」
アドリアンはオヅマの話を聞いて、パチパチと目をしばたかせた。
アールリンデンに来てから、自分はオヅマを庇護する立場として振る舞っていたが、やはりオヅマは年上なのだ。苦手意識からハヴェルを避けていた自分より。
ようやく心が穏やかになって、アドリアンの顔に微笑みが戻った。
「そうだね。僕も一度、じっくりハヴェル公子と話すべきなんだろうな」
「そのうちな。まだ、今はやめとけ。あの野郎の方が
「うん。もっと勉強して、自信をつけないと」
アドリアンは両手に拳をつくって、自分に言い聞かせる。
先の見えない将来も、茫漠とした不安も、これまで一人で立ち向かってきた。そばで支えてくれる、見ていてくれる人間がいると思うだけで勇気が湧いてくる。
しかしふと見上げれば、オヅマの顔はどこか空虚で、寂しげだった。
「もし……ハヴェルの野郎がアイツと同じような奴なら、容赦する必要もない……」
アドリアンは呼びかけようとしたが、喉が詰まって声にならなかった。
つぶやくオヅマが、急に知らない人間になったかのように思えた。
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