第二章
第二百二十話 グレヴィリウス公爵の来訪
エリアス・グレヴィリウス公爵は、まずは新たな街道建設の調査について実地で確かめるべく、レーゲンブルトを経ることなく、直接ロージンサクリ連峰へと向かい、麓の村で止宿した。
そこでヴァルナルと合流して一泊した翌日に、山間の道の途中まで行き、調査についての詳細な報告を受ける。その後には隣接するダーゼ公爵側との折衝において必要とされる、具体的な利益や維持管理の配分等について、ヴァルナルと話し合った。
ここまでの過程で、公爵の目的が街道建設の下見だとヴァルナルは疑いもしなかった。実際に、レーゲンブルトへと向かう道すがら、並んで
しかし公爵がわざわざ辺境の地にまで足を運んだ理由が、そればかりでなかったことをヴァルナルが知ったときには、既に審問は始まっていた……。
***
夕食を終えた後、ヴァルナルは公爵に呼ばれた。
「今から?」
思わず聞き返したのは、行きたくなかったからではない。
アールリンデンからそのままロージンサクリの麓まで行き、街道建設予定の山道を視察…という強行軍であったので、ようやくレーゲンブルトに辿り着いて、今日は早めに休まれるであろうと思っていたのだ。
公爵の伝言を届けに来たのは、ルーカス・ベントソンだった。
「新婚夫婦の語らいの邪魔をするのは俺としても不本意だが、閣下からのご命令なのでな。男爵夫人も一緒に、と」
「ミーナも?」
ヴァルナルは首を傾げた。
正直、公爵は貴婦人連中相手に楽しく語らうという人ではない。というより、昔からその容貌に心寄せる婦人方は多く、つきまとう女にはあからさまに邪険に扱うことも少なくなかった。
唯一の例外が亡くなった奥方であったわけだが、夫人を失ってからなど、必要に応じて仕方なく相手せねばならない状況を除き、女性と話すことはほぼないと言っていい。
隣に座るミーナと目を見合わせる。
「何か…お気に召さないことが……」
心配そうにミーナがつぶやくと、ルーカスはあわてて笑みを浮かべて否定した。
「そのようなことはございませんよ、男爵夫人。正直、このような辺境の田舎で、こうまで行き届いた饗応をしてもらえるとは思ってもみませんでした。しかも急なことであったというのに、誠に男爵夫人の細やかな配慮には感謝するばかりです」
「そんなことは…」
ミーナは謙遜したが、ヴァルナルは天性の色男ぶりを発揮するルーカスからミーナを隠すように立ち上がり、大声で牽制しにかかる。
「そうだろう! いや、実は大変だったんだ。この時期はいつも
「それはそれは…」
ルーカスは苦笑した。女のことで、こうまでこの男が変わるとは思わなかった。
しかし、胸中ではより不安が増大する。それはヴァルナルにではなく、この準備を取り仕切ったのがミーナであった…ということに、だ。
だが憂いを面に出すことなく、とぼけた様子でヴァルナルをからかった。
「無骨なヴァルナル・クランツには勿体ない方であられるようだな、男爵夫人は。婚儀を上げて間もないが、後悔はしておられませんか? もし、これ以上、この男とつき合いきれぬとなった場合には、私めを頼って下さい。なんなりと」
「まぁ…」
ミーナはルーカスの冗談にクスクス笑い、ヴァルナルは思い切り苦虫を噛み潰した顔になる。
「いい加減にしろよ…お前」
「怖い顔をするな、男爵。
「うるさい。早く行くぞ」
ヴァルナルはミーナの手を取り、ルーカスをジロリと睨みつけて部屋を出ていく。ミーナは軽く会釈してルーカスの前を通り過ぎた。ルーカスは恭しく騎士礼をしながら、軽く息をつく。
ついこの間まで病弱なお坊ちゃんの世話人、その前は厨房の下女、もっと前は飲んだくれの夫に虐げられていた、奴隷上がりの妻でしかなかった女だというのに、ちっとも卑しさを感じさせない。元からの美しさだけでなく、身についた教養から滲み出る品性。ただの平民出の女には、不釣り合いなものだ。
それこそ公爵閣下の疑念を招くほどに……。
***
「ヴァルナル・クランツ、公爵閣下の前に罷り越しましてございます」
頭を下げるヴァルナルから一歩下がって、ミーナも無言でお辞儀する。
右手でスカートをつまむ優雅な指の形、左手はそっと卵を持つかのように胸に添え、頭は下げずに、目を伏せてまっすぐに背を伸ばしたまま腰をやや落とし屈める…。
その美しい所作を、公爵は無言で注視していた。
「………あの?」
何も言わぬ公爵にヴァルナルが首をかしげる。
「あぁ…」
公爵は我に返ると、コツコツとテーブルを人差し指で叩いてから、ミーナに言った。
「呼び立てて早々すまぬが、男爵夫人に頼みたいことがある」
「はい?」
ミーナは驚きながらも気を引き締めた。
公爵が目で合図すると、若い従僕がワゴンに被せてあった白い布を取った。そこに置いてあったのは、少し形の変わったカップ類とポット、ハンドルのついた黒い箱のようなもの、それに小さな布袋だった。
「これは…」
ヴァルナルはワゴンの方から漂う匂いに、すぐに思い出す。以前に弟・テュコが持ってきた黒い豆と同じ匂いだ。
「最近、帝都で流行っているらしい。
鷹揚に言いながらも、公爵の鳶色の瞳は油断なくミーナの挙動を窺っていた。
ミーナは突然のことに戸惑うばかりで気づかなかったが、ヴァルナルはチリチリと胸の奥で焦りだす。
おそらくはテュコが話したのであろう。
公爵家とヴァルナルの実家の間に直接取引はないが、公爵邸に出入りする大商家は重要な取引先だ。彼らに珈琲豆を売りつける際にでも、ちょっとした話題として持ち出したのかもしれない。
「そこの従僕に教えてやってくれ。男爵夫人の教えとあらば、間違うことなく学ぶであろう。必要とされる道具は揃えたつもりだが、まだ何か入り用か?」
「いえ…」
ミーナはチラリとワゴンの方を見やった。以前に作った時にはなかった豆を挽くためのミルまで用意されていた。
「十分にございます。それでは失礼して、淹れて参ります。しばしお待ち下さいまし」
ミーナはまた優雅に辞儀をすると、くるりと踵を返すときにヴァルナルと目が合った。心配そうなヴァルナルの手にそっと触れて微笑んでから、若い従僕を連れて部屋を出ていく。
ヴァルナルは扉の閉じる音を聞いてからも、しばらくは黙り込んでいた。
公爵はヒュミドールから葉巻を取り出すと、カチリと専用鋏で先を切ってから火を点ける。
フゥと煙を吐いてから尋ねた。
「何か言うべきことは?」
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