第二百十六話 弓試合(5)

 オヅマは長弓を持って、射場に立った。

 スゥと息を吸い込む。

 正直なところ、自信はない。アルベルトから弓の稽古を受けてはいたものの、長弓はまだ早いと言って教えてはもらえなかった。

 とりあえずエーリクの所作を真似てやってみたが、想像以上に長弓は硬かった。矢をつがえることすら難しい。つるを十分に引き絞るまでに、指が千切れそうだった。


ッ!」


 弓を構える前に、矢がその場にポトリと落ちる。


「無効」


 審判が無情に告げる。

 オヅマは唇をかみしめた。


 背後ではヘンスラーがニヤニヤと笑っていた。

 大の大人ですら手こずる長弓を、成長著しいとはいえ、まだ騎士見習いの少年ごときが扱えるはずもない。ようやく自分の企図した通りに進み出した……と、ほくそ笑む。


「オヅマ。しっかりと体の芯をつくれ」


 エーリクが声をかける。「つるを引くより、弓を押すんだ」


 オヅマはコクリと頷くも、やはりそう簡単なことではない。

 長弓を持って考え込んでいると、ざわざわと話す騎士たちの声が耳に入ってくる。


「やはりまだ子供には早かったんだ」

「エーリク・イェガは兄たちからみっちりしごかれたんだろう」

「クランツ卿は、剣は一流だが弓の扱いは……」


 オヅマは眉を寄せた。


 早い……。

 でも同じことを言われた。



 ―――― まだこの子には早ぅございます、閣下!



 そう、早かった。

 まだ早いと自分でもわかっていても、それでも早く役に立ちたくて、認められたくて必死だった……。



 ―――― 本人にやる気があるのだから、やらせてみればよかろう。



 その声に反射的に怖気おぞけが走る。

 それでもオヅマは恐れながら、をゆっくりと手繰り寄せる。



 ―――― 己の中に一つの柱をつくるように……



 オヅマは射場に立ち、ゆっくりと、静かに、弓に矢をつがえる。 



 ―――― 力点を置く場所が大事なのだ……



 一息ついてから、グイッと思いきって弦を引き、弓を押す。


 騎士たちがどよめいたが、オヅマには聞こえていなかった。ギリギリと弦を持つ指が痛みを増していく。



 ―――― 弦を無理に引こうと思うな。弓を遠くへ押せ……

 ―――― 背の骨を近くしろ……



 脳裏に響く声は的確に指示する。


 吐きそうな嫌悪感を押し籠めて、オヅマは矢を放った。

 トスリ、と的の手前の地面に刺さる。

 騎士のある者は残念そうに声を上げ、ある者はやはりな、としたり顔になる。

 一本目では余裕の笑みであったヘンスラーは、届かないまでも二本目の矢を飛ばすことができたオヅマに、内心でジリジリとした焦りがこみ上げていた。

 オヅマは息を吐いた。

 通常の弓の感覚で構えると、姿勢が保てない。長弓に応じた体勢に変えなければ……。

 さっきよりも足の間隔を開いて立つ。

 胸深くに息を吸い込み、静かに吐いていく。


 集中は周囲の雑音を消し、徐々に静謐な空気がオヅマの中に満ちていく。

 その過程は、稀能きのう『千の目』を発現するときと似ていた。


 ふと、あの日の恐怖が甦る。

 マリーに襲いかかる男の首を斬ったときの、有り得ない既知感。

 ビクンと震え、意図せず放たれた矢は力なく地面に落ちた。


「惜しい!」


 ヨエルが叫んだが、オヅマには聞こえていなかった。


 じっとりと汗がにじむ。

 頭に直接聞こえてくる声が、ひどく鬱陶しい。それでもその苛立ちを排除し、押し殺さねばならない。


「オヅマ」


 アドリアンが心配そうに声をかけてくる。「大丈夫か? 顔色が悪い」


 さっきまでふてぶてしいくらいに元気で口達者であったオヅマが、やけに追い込まれたような、余裕のない表情になっているのが気になった。


「大丈夫だ」


 オヅマは笑った。

 手を上げて、棄権でも言い出しそうなアドリアンを制する。

 アドリアンの隣にいたマティアスが渋い顔でつぶやいた。


「まったく。言い出しっぺが苦戦してどうするんだ」

「ハッ…」


 オヅマは思わず吹き出した。

 こんな時でも、文句を言ってくるあたり、マティアスらしい。


「確かにな」


 頷いてから深呼吸し、肩を思いきり持ち上げてストンと落とす。どうも余計な力が入っていたようだ。


「マティアスの言う通りだ。さっきお前も言ったろう? ならなくていい」


 エーリクが励ますと、オヅマは驚いたように目をしばたかせた。


「珍しく、エーリクさんにしちゃ気の利いたことを言ってくれるね」

「お前が言ったことだろう」

「そうそう。だから気が利いてるんだ」


 オヅマはとぼけたように言って、スゥと息を吸い込むと、的を睨みつけた。

 あと、二本。

 心を澄まして、気持ちを落ち着ける。

 あの声にも動揺しないように、ただ指示としてだけ聞く。



 ―――― 美しい動作は正しい結果を生む……



 しっかりと土を踏みしめて、その場に根を下ろしたかのように重心を低く、立つ。真っ直ぐに意識を上下に伸ばして、体に芯を持つ。矢をつがえ、弓を上げて、構える。

 ビュイン、と放たれた矢は、的の縁ギリギリをかすめて的を支える盛土に刺さった。

 ああーっと、騎士らも、マティアスたちも声を上げた。

 いよいよあと一本。これを外せば負けとなる。

 しかし、オヅマに焦りはなかった。



 ―――― 少し下につがえるのだ……



 今は素直に、その声の言う通りにする。胸の奥に奇妙な懐かしさが沁みたが、無視した。

 最後の矢をつがえて、弓を上げながら、弦を引く。

 やじりの先に的を睨み、狙いを定める。



 ―――― 当てようと思わず、正しく射ることに集中しろ…… 



 まるでオヅマの心を見透かしたかのような、適切な指導。

 ギリ、と奥歯を噛みしめて、オヅマは矢を放った。


 ドスリ!


 三の円の下側に、矢が刺さった。


「やったぁ!」


 テリィが大声で叫び、騎士たちもどよめいた。

 オヅマはホゥと息をつくと、弓を下ろして、ゆっくりと射場から出た。


「ご苦労さま」


 戻ってきたオヅマにアドリアンが声をかける。


「まだまだ…」


 オヅマはニヤリと笑ってヘンスラーを見た。

 急に、自分の弓によって勝敗を決さねばならない状況に陥って、ヘンスラーはすっかり焦って顔色をなくしていた。

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