第二百十七話 弓試合(6)

 マウヌ・ヘンスラーの弓術の腕は間違いないものだった。

 速射においては、グレヴィリウス配下のどの騎士団の騎士よりも多く矢を射ることができたし、長弓を使った遠射においても、誰よりも遠くまで矢を飛ばすことができた。

 だからこそグレヴィリウス公爵直属騎士団における弓部隊の隊長を任命されたのであり、弓使いであることに誇りもあった。(騎士の主流はやはり剣術であったので、弓使いはやや下に見られることがあった)


 彼の配下の騎士たちは、やや直情径行な性格であっても、ヘンスラーの実力は認め、弓使いとしての研鑽を怠らない彼を、それなりに尊敬していた。

 ただ、騎士らは実力も十分にある隊長の、唯一にして最大の弱点もわかっていた。

 ヘンスラーは極端にプレッシャーに弱かったのだ。


 これまでに公爵家で行われた闘競会ダルスタンで優勝できないのは、まさにそれが原因であった。

 特に正確性を求められる【的射ちテル=ディオット】においては、その緊張が如実に現れる。

 オヅマが【的射ちテル=ディオット】を提案してきたときに、自分の得意な種目を言っても良かったのだが、そこはやはり相手が子供ということもあって、油断していたのだろう。


 オヅマはヘンスラーが闘競会ダルスタンで優勝していないことを知った時から、彼がおそらく緊張に弱い類なのだろうと推測していた。

 公爵直属騎士団の弓部隊の隊長が、本職である弓の競技で優勝できないなんてことは、実力主義を旨とするグレヴィリウス配下の騎士団において有り得ないことだったからだ。


 だからこそ順番を入れ替え、自分が成功することによって、彼にかかる重圧をより重くしたのだった。

 無論、自分が失敗する可能性もあったが、より『勝つ』ことにこだわれば、こうした小細工めいた戦法を取らざるをえない。 


 案の定、ヘンスラーは押し黙ったまま座り込んで、まだ射場に入ることすらできずにいた。

 離れた場所からでも、額からふつふつと汗が噴き出ているのがわかる。


「隊長」と声をかけて促したのは、ヤミだった。

 相変わらず何を考えているのかわからない表情をしている。

 少なくともヘンスラーを励ましているようには見えなかった。


「わかっている!」


 ヘンスラーは怒鳴って立ち上がった。

 壁に掛けてあった長弓を取ると、足音も荒々しく射場へと入る。

 何度も深呼吸を繰り返してから、ようやく足を開いて構えの体勢をとった。


 しかしこの時、極度の緊張状態にあったのだろう。

 ヘンスラーの動作は、やたらと強張っていた。矢をつがえ、弓を上げて的を狙うも、なかなかてない。


 ヘンスラーの顔色はどんどん悪くなっていった。ギリギリとつるを引き絞る音が、彼自身を圧迫するかのように……。


 オヅマは素知らぬ顔で、ヘンスラーの息遣いを注意深く窺っていた。

 やや震えながら、必死に気持ちを落ち着けようと呼吸を繰り返している。


 吸って、吐いて、吸って、吐いて……大きく吸って、いよいよ矢を放つという寸前の、いざ息を吐くその瞬間に ――――


「はぁ…」


 オヅマは軽く溜息をもらした。


 ヘンスラーの矢は的を大いに外し、修練場の板塀にザクリと刺さった。


「うああっ!」


 ヘンスラーはすっかり狼狽した様子で叫んだ。

 その場にへたりこみ、頭を抱え込む。


 アドリアンは少し気の毒に思えてきて、声をかけようとしたが、その時パチパチと背後から拍手が聞こえてきた。

 その場にいた全員が一斉に振り返る。


 そこには眼鏡の男が立っていた。

 穏やかなアンバーの瞳が、ざっと居並ぶ騎士らを見回す。

 強い風が吹いて、乱れた樺茶かばちゃ色の髪を掻き上げると、くしゃりと笑った。


「あいつは……」


 オヅマは見覚えがあった。

 初めて本館を訪れて迷っていたときに、ルンビックの執務室を教えてくれた男だ。


「ハヴェル様!」


 ヘンスラーは叫ぶと、あわてた様子で立ち上がり、男の前へと駆け寄った。


「ハヴェル公子がいらっしゃるとは…なんとも周到な」


 マティアスが苦々しい顔でつぶやいた。

 テリィもそろそろとエーリクの背後から、ハヴェルの前で跪いてひどく恐縮した様子のヘンスラーを見て、毒づいた。


「あの隊長、ハヴェル公子が来ているから、いいところを見せようとしたんじゃないの? じゃないと、こんなバカげた試合に乗らないだろう」

「だとしたら、隊長殿は下手こいたな」


 オヅマは腕を組んで、ハヴェルとヘンスラー二人の様子を見ていた。

 どっちにしろ、こちらの意図したことは成功したのだ。むこうの思惑など、知ったことではない。


 一方、アドリアンは無表情にハヴェルらを見ていた。

 土下座する勢いで謝るヘンスラーに、ハヴェルはいつも通りの優しい笑顔で接している。「気にするな」と励まされて、ヘンスラーがいたく感激しているのがわかった。


 ハヴェルの斜め後ろには、腰巾着よろしくアルビン・シャノルが控えている。

 小太りで人の良さそうな笑みを浮かべているが、それが顔に貼り付けられた愛想であることは、彼の為人ひととなりを知っていればわかることだ。

 アドリアンの視線に気付いたのか、つと、顔をこちらに向けた。視線が合うと、アルビンは苔緑モスグリーンの瞳を細めて、軽くアドリアンに会釈する。


 気付いたハヴェルが顔を上げ、アドリアンを見た。

 柔和で上品な面差しに変化はない。

 じっと立って自分を凝視するアドリアンに、悠揚と歩み寄ると、朗らかに声をかけた。

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