第二百九話 アドリアンの叱責

 扉を開くなり、目が合ったのはキャレ・オルグレンだった。泣きそうな顔でこちらを見つめている。


「なに? どうしたの?」


 アドリアンは入った途端に、その場の空気がかなり悪いとわかった。


 テリィは床に座り込んで、また泣いているし、エーリクは怖い顔でオヅマを睨みつけている。背を向けたオヅマの表情はわからなかったが、アドリアンの声を聞いても振り向かないのだから、きっと穏やかな顔をしているわけではないだろう。


 マティアスが小走りにやってきて、深々と頭を下げた。


「申し訳ございません、小公爵さま。少し、いさかいが生じまして」

「あぁ、そう」


 アドリアンは軽く頷いて、ゆっくりとした足取りでオヅマらの方へと歩いていく。

 キャレはあわてて椅子から立ち上がり、エーリクやマティアス同様に頭を下げた。


 テリィの前に立って、しばらくアドリアンは無言だった。うつむいたまま、じっと立ち尽くしているオヅマには一顧だにしない。


 テリィはしゃくりあげながらも、指の間から小公爵の履いている磨き上げられた革靴をチラチラ見つつ、待っていた。

『大丈夫、テリィ?』と、優しくいたわる声を。


 しかしアドリアンの顔には、同情は一片たりとなかった。しばらく待っても、しゃがみ込んだまま一向に泣き止まないテリィに、冷たく呼びかける。


「テリィ、立ってもらえる?」


 テリィはそれでもなかなか立ち上がらなかったが、アドリアンが眉を寄せるのを見たキャレが、すぐさま小声で叱責した。


「チャリステリオ、立って下さい。いつまでも泣いていてはみっともないです」

「まったくだ」


 マティアスも言って、二人で手を貸してテリィを立ち上がらせる。


 テリィは自分にちっとも優しくないアドリアンに失望した。


 自分は祖父に言われて仕方なしに、ここに来たのに。

 母だって反対していたし、小父おじだって今更、小公爵に肩入れする必要などないと言っていたのに、祖父が御恩顧ごおんこ云々うんぬんなんて知りもしない昔話を始めて、結局なし崩しにここに来る羽目になった。

 それでも公爵家で冷遇されている小公爵に同情したからこそ、支えてあげようと思っていたのに、こんな態度をされるなんて……!


 テリィは心の中でつらつらとこれまでのことを振り返る。

 すると鼻の奥がツンとしてきて、ますます涙があふれて止まらない。


 マティアスとキャレは、またひどくしゃくり上げて泣き出したテリィに驚いた。目を見合わせて、キャレは首をひねり、マティアスは渋い顔になった。


 情けなく泣き続けるテリィに、アドリアンは内心で嘆息した。

 自分よりも二歳年上の子爵家の嫡嗣ちゃくしは、なにせ泣き虫だ。男でも女でも、すぐに泣く人間というのは、どうにも話が通じない。

 アドリアンはややあきれたように命令した。


「テリィ…いや、チャリステリオ。君の口からなにがあったのかを説明したまえ」

「うっ…ぅ…お…オヅマ…がっ……」


 しゃくりあげるテリィの言葉は切れ切れだったが、懸命に訴えた。

 最終的に「オヅマが僕の首を絞めた」という言葉を聞いて、アドリアンは公爵にも似た眉間の皺を浮かべ、マティアスに命じた。


「マティアス、テリィの首を見せてくれ」


 言われてマティアスはテリィの襟の留具を外した。

 白い首にくっきりついた赤い痣に、アドリアンは一気に冷たい顔になった。


「………サビエル」


 アドリアンが静かに呼ぶと、扉を背に控えていたサビエルが「は」と頭を下げる。


「テリィを連れて行って。一応、医師に見せた方がいいだろう」

「かしこまりました」


 サビエルは泣き続けるテリィを促して、部屋から出て行った。


 バタン、と扉が閉まると同時に、アドリアンは隣に立っていたオヅマの頬を打った。

 キャレは悲鳴を上げそうになって口を押さえ、マティアスとエーリクは目の前の光景が信じられないように口を開いたまま固まった。

 その場にいて、この状況について把握できていたのはアドリアンとオヅマだけだった。

 アドリアンは何も言わず下を向いたままのオヅマの頬に、再び手を上げる。パシッと乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。


「ルンビック卿から忍従を学ぶようにと、言われたよね?」


 アドリアンが冷たく言うと、オヅマはしずかにひざまずいた。


「………申し訳ございません」


 淡々とした言葉に感情はない。あくまでも主従として、自分の不手際を謝しているだけだった。

 アドリアンはオヅマの謝罪が形式的なもので、テリィに対して何らの申し訳無さも感じていないのはわかったが、それについて咎めようとは思わなかった。

 だが ―――


「君に近侍になることを望んだ以上、僕が受けるべき罰については甘んじて受ける。その覚悟はしている。しかし、チャリステリオに対する暴行は許されない。彼が君を怒らせるようなことを言ったにしろ、暴力は控えろ。それは君自身の価値を下げる行為だ」


 オヅマは唇を噛みしめた。

 何の反論もできない。

「はい」とおとなしく頷くと、アドリアンは重ねて言った。


「公爵閣下に対しても同じだ。僕は閣下が僕を嫌う理由はわかっているし、納得もしている。だから……心配しなくていい」


 最後の言葉でアドリアンは引き締めていた顔を、ふっと緩めた。

 無理に作られた穏やかな表情に、オヅマは眉を寄せる。

 なんだって、親を庇うようなことを言うのか…納得できない。

 アドリアンはオヅマの内心をおおよそ理解しつつ、そのことについては話を打ち切った。


「さて。じゃ、今回の罰についてだけど」

 

 さきほどまでの冷ややかな剣幕が嘘のように、いつもの朗らかな口調に戻る。

 オヅマはぶたれた頬をさすりながら、立ち上がった。


「罰?」

「そりゃそうだろ。僕は君についての責任があるんだから、責任者としては反省させる必要がある」


 オヅマはさっき、アドリアンが公爵から頬をたれた姿を思い出した。

 自分が頬を打たれたのは、その『罰』を含んでいるのかと思っていたのに、今のアドリアンの話だと別に『罰』が用意されているということか?


「ちょっと待て! 俺、さっきお前……小公爵さまに殴られましたよね? しかも二度!」

「僕の平手打ちなんて、君にとっちゃ蝿に顔を突つかれた程度だろ。君への罰はベントソン卿に頼んでおいたから、とっとと行ってこい。授業の方は、後で補講してもらうように、オーケンソン先生に言っておくから」


 アドリアンは澄まして言った。

 オヅマが渋い顔で突っ立っていると、やや意地悪な笑みを浮かべて、別案を提示する。


「それとも、謹慎にするかい? 今から三日間、自室から一歩も出ずに反省文を……」


 途端にオヅマの顔が引き攣った。以前にその罰をくらったときが一番きつかったことを思い出す。


「………行きます」


 即座に頷いて、オヅマは足早に部屋から出て行った。

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