第二百四話 ここに来た意味

「遅かったな」


 ルンビックは眼鏡を持って帰ってきたオヅマを見るなり言った。

 後ろに組んだ手には懐中時計がある。


「あともう少しでサビエルを迎えに行かせようかとも思ったが」

「フン」


 オヅマは眼鏡を机に置くと、どっかと椅子に座り込んだ。


「で? どういうことなんだよ?」


 腕を組んで尋ねるオヅマに、ルンビックはとぼけたように聞き返してくる。


「どういうこととは?」

「しらばっくれんなよ。本館に入ってアンタの執務室がどこかを使用人に聞いても、逃げられるし、無視されるし、嘘までつかれた。こっちは小公爵さまの近侍だと挨拶しているにも関わらず、だ」


 ルンビックは驚かなかった。予想していたのだ。いや、むしろ十分にわかった上でオヅマを行かせたのだろう。


「なかなか難渋したようだ。それでもこうして持ってきたわけか」

「一人、気弱そうな奴を締め上げて、執務室があるっていう北棟まで案内させたんだ。そいつが別れ際に言ってたよ。『七竈ナナカマドの館の人間とは関わってはいけない』って。公爵家で働いている下男風情が、公爵さまの次に偉い小公爵さまに対して、どうしてそんな言葉が吐けるんだろうな」


 ルンビックはオヅマをジロと見つめた。

 コホリ、と小さく咳払いして澄まして言う。


「それがこのアールリンデンにおける小公爵様の立場だ」

「まるでアドルに問題があるみたいに言ってるけど、使用人にそんなことを許している人間が、そもそも不甲斐ないって話だろ」


 率直で辛辣なオヅマの指摘に、ルンビックは内心で苦笑する。


「それは私に問題があるということだな」


 静かに自分の非を認めたが、オヅマはより追求を深めた。


「あんた含めて、だ。使用人に息子の……」

「それ以上のことは言うな。ここで暮らすなら」


 暗に公爵への批判を言いかけたオヅマを、ルンビックはあわてて厳しい顔で制止した。

 しかしオヅマは怯むこともない。


「言わせるなよ、だったら」

「………まったく」


 ルンビックはそっとため息を漏らした。

 元は小作人の小倅だと聞いていたが、このふてぶてしいほど堂々とした態度はどうだろうか。その上、ただ単に腕っぷしが強いだけでもなく、頭も回る。これはなまじの礼法の教師では太刀打ちできないだろう。


「お前の指摘は間違っていない。しかし、現状においてはそう簡単に私の一言で変わることでもない。この問題については、お前もいずれわかってくるだろう」


 ルンビックは鹿爪らしい顔で言いながら、声には苦渋が滲んでいた。


 オヅマはルンビックの様子から、彼がこの状況を作り出しているわけではないのだとわかった。

 では一体、誰が、あるいは何が、小公爵たるアドリアンに対する無礼を許しているのだろうか?


 しばし考えてオヅマが思い出したのは、北棟の画廊だった。

 あれだけ絵があった中で、アドリアンの絵は一つだけだった。

 ひきかえ亡くなった公爵夫人の絵は、大小様々のものが十以上は飾られていた。

 それに ―――


「あんたの部屋に行く前に、なんか絵がいっぱい飾ってある広間みたいなところに出たんだ。そこに妙な絵があった」

「妙な絵?」

「公爵さまと、たぶん奥さんだろうな。鴇色ときいろの髪の上品そうな女の人。それと真ん中にアドルじゃない子供が立ってる絵だよ」


 ルンビックはすぐにその絵を思い浮かべることができた。

 同時に、この話における急所を突いてきたオヅマに、気付かれぬよう動揺を飲み込む。


「あれは、なんだ? アドリアンに兄ちゃんでもいたのか?」

「兄か。兄…とも言えるな」

「なんだよ、奥歯に物が挟まったみたいな言い方して」

「小公爵様が生まれる前、この公爵邸の継嗣として育てられていたのは、公爵の甥御であったハヴェル様だ。公爵様と奥方には長く御子ができなかった。それで公爵様の妹であられるヨセフィーナ様のお産みになられたハヴェル様が養子として、この公爵邸に参られたのだ。奥方様は、我が子同然に慈しみ育てられた。しかし、その後に奥方様は小公爵様を身籠みごもられ、公爵様はハヴェル様との養子縁組を解消された」


 ルンビックの話を聞きながら、オヅマはその『ハヴェル』という名前に眉を寄せた。聞き覚えがあると思ったら、さっき庭師の男がつぶやいていた名前だ。



 ―――― 今日はハヴェル様もいらっしゃってるってェのに…



「つまり、あの絵の子供はそのハヴェルって奴で、この公爵邸の人間はそいつの味方ってことか?」


 オヅマが単刀直入に訊ねると、ルンビックはさすがに渋い顔になった。


「……ハヴェル様は今も公爵邸に足繁く来られる。公爵夫人が養子縁組解消を了承する代わりに、解消した後にもハヴェル様が自由に公爵邸に出入りできるよう、公爵様に懇願されたからだ。公爵夫人が亡くなった今も、それは続いている。使用人の古い者は、ハヴェル様の不遇に同情する者も多い。彼らから話を聞いた者達もまた同様に…」


 オヅマは話を聞きながら胸糞が悪かった。

 皆してハヴェルという奴を悲劇の子供みたいに祀り上げているようだが、それで実際に身の置き所がない状態になっているのは、本来正統な跡継ぎであるアドリアンだ。

 しかも当人にはどうしようもない、生まれる前のことで。


 今更ながら、オヅマは自分がここに連れてこられた意味がなんとなくわかってきた。

 近侍として、アドリアンの警護的なことをしておけばいいだけだろうと思っていたのだが、無論、そのことも含めて、この公爵邸で孤立しているアドリアンをたすけなければならないらしい。


 しばらく考え込んで、オヅマはルンビックに尋ねた。


「そのハヴェルは今日も来てるって?」

「……そのようだ」

「俺が絵で見たのは淡い色した金髪の子供ガキだったけど、もしかして、そいつ大人になって髪色が変わったのか?」


 ルンビックはオヅマの問いに、さすがに驚きを隠せなかった。「そうだが」と頷いて、訊ねる。


「なぜそれを?」

「俺が会ったのは、暗いくすんだ茶色っぽい髪の奴だったんでね。眼鏡をかけた、ニコニコ笑ってる兄ちゃんだ。青いピアスもしてたな。ハヴェルってのはそいつか?」


 ルンビックは眉間の皺を押さえつつ、とりあえずオヅマに注意した。


「今度からその方に会ったら、きちんと接するように。間違っても『兄ちゃん』などと、下賤の言葉で呼んではならぬ」


 オヅマは既にルンビックの話を聞いてなかった。


 あの男がくだんのハヴェル公子であるならば、確かに人当たりは良さそうだ。オヅマのことをアドリアンの近侍と知ったうえで、意地悪せずにルンビックの執務室に連れて行ってくれた。

 だが、自分の正体を言わずにいたことも含めて、見たままの性格かどうかは大いに疑問が残るところだ。……


 ルンビックはゴホンゴホンと大きく咳払いし、オヅマの注意を戻した。


「いずれにしろ、お前がこの邸内で粗相すれば、その矛先は小公爵様に向くということだ。お前自身が責任を取ると言っても、通じぬ。近侍であるお前の不手際は、お前の主である小公爵様の監督不行届となる。であればこそ、小公爵様のお立場を悪くするようなことは控えねばならぬ」

「だから、物知らずな田舎者の元平民には礼儀作法が必要だって?」


 ルンビックは重々しく頷いた。

 オヅマはしばらく老家令と睨み合っていたが、ツイと目を逸らすと、軽くため息をついた。


「言っとくけど…俺はなんてことは嫌いだ。そこまでアドルに忠誠を誓うつもりもないし、そもそもあいつだって望まないはずだ」


 ルンビックは眉を寄せた。

 この公爵家の後嗣である小公爵付きの近侍でありながら、あるじに忠誠を誓わぬなど…あり得ない。

 元平民であるがゆえの無知というものでもないだろう。むしろ平民であれば、もっと公爵家に対して畏怖し、盲目的に従うはずだ。


 だとすれば、この傲慢な態度は一体どこから出てくるのだろう。

 生意気を通り越して、威風堂々と、何ら悪びれることのない自信に満ちた立ち居振舞い……それこそまるで、貴族の若君そのものではないか。



 ―――― この少年を本当に小公爵様の近侍にして良かったのか…?



 ルンビックの危惧に気付くことなく、オヅマは話を続ける。


「だけど、あんたの言う通り、ここで生活する上で、俺にある程度、礼儀作法が必要なのはわかってる。だから、俺は俺の意志で学ぶさ。ただし、やたらと卑屈なのも、意味もなく鞭打つ奴もゴメンだ。俺自身が尊敬もできない奴から礼儀を習うなんぞ、おかしな話だろ」

「成程」


 ルンビックは頷いた。


 その二日後。

 新たな礼法の教師としてオヅマの前に立ったのはルンビック本人だった。


「どうやらこのアールリンデンで、お前を教えるに値する礼法教師は私しかおらぬようだ」



 ――――――



 それから三ヶ月が経って。


 他の近侍たちが来てからは、オヅマも彼らと同じ礼法教師の元で教わるようになった。家令から直々に礼法の教育を受けた成果であるのか、今のところ教師を辞めさせるには至っていない。


 それでも時々ルンビックはオヅマを自らの執務室に呼び出した。

 きちんと学習が出来ているかを確認するためであったが、茶菓子の用意を整えて家令の執事室を出た女中は肩をすくめて言った。


「なんだか、おじいちゃんと孫みたい。あの二人」

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