第二百一話 老家令ルンビック子爵
三ヶ月前 ――――
オヅマがアールリンデンにやって来たときには、まだ近侍は誰も来ていなかった。
「しばらくはお前が小公爵様の近侍として奮励努力するように」
挨拶するなり、初対面の家令の爺さんに難しい言葉を言われ、オヅマは「は?」と聞き返した。
扉横に立っていたアドリアンの従僕・サビエルは、頭を押さえ内心で天を仰ぐ。
彼はレーゲンブルトからこのアールリンデンに来るまでの間に、オヅマと小公爵であるアドリアンの仲が、非常にざっくばらんなものであることは承知していた。それでもアールリンデンに来たからには、少しは萎縮して畏まるかと思っていたオヅマの態度は、まったく変化もない。この広大なグレヴィリウス公爵邸の、厳格なる番人である老家令を目の前にしても、だ。
「今のは、何だ?」
初対面の少年の不遜な態度に、家令であるルンビック子爵はいつもの鹿爪らしい顔を険しくした。
「あ、すみません。意味がわからなかったもので」
オヅマはまったく悪びれることもなく言う。
「意味がわからない? 何がだ?」
「えぇと…奮励努力っていうのは、つまり頑張れってことですかね?」
「そうだ」
「だったら頑張れよ、でいいのに。いちいち難しい言葉使わなくてもさ」
ボソリとオヅマはつぶやく。当人は独り言のつもりだったが、シンと静まり返った部屋では、思っていた以上にはっきりと聞こえた。
老家令はしばらく黙りこくって、一言つぶやいた。「成程」
それはオヅマの言うことに納得したのではなく、クランツ男爵が送り込んできた近侍には、とくに礼儀作法の教育が必要だと自らに言い聞かせたのだ。
しかしルンビックがオヅマにつけた礼儀作法の教師は、たった一日で退職を願い出た。
「私には無理です!」
泣きながら帰っていく家庭教師に対して、オヅマの態度はふてぶてしいほどに傲然としたものだった。
「あんなネチネチと鬱陶しいやつに教わったら、礼儀より先に卑屈が身につくぜ」
「卑屈になるかどうかは、君次第だろ」
アドリアンの従僕であるサビエルがあきれたように言ったが、オヅマはどこ吹く風だった。
ルンビックはまた「成程」と独り言ちて、新たな教師を連れてきた。
しかしこれまた初日にして、サビエルが飛び込んできた。
「大変です! ルンビック様!」
「なにがあった?」
「オヅマがまたやったみたいです!」
道すがらに聞いてみれば、サビエルが偶然廊下を歩いていたら、オヅマが授業を受けている部屋から、男の「助けてくれっ」という悲鳴が聞こえてきたのだと言う。あわてて扉を開けると、礼法教師が真っ青な顔で腰を抜かしており、その前にオヅマが剣呑たる表情で立ち尽くしていた。
オヅマはすぐにサビエルに気づいたものの、驚く様子もなかった。
「言いにいけよ。あの爺さんに」
サビエルはその雰囲気があまりに恐ろしすぎて、あわててルンビックを呼びに来た……とのことだ。
ルンビックが部屋に辿り着くと、礼法教師はまだ青ざめた顔で、尻もちをついたままだった。オヅマはやってきたルンビックの厳しい顔にも、なんら悪びれる様子もない。
「なにがあった?」
ルンビックはオヅマに問うたが、震える声で叫んだのは、礼法教師だった。
「そ、その小僧がっ……いきなり、わ、私に剣をっ……」
「剣?」
ルンビックが聞き返すと、オヅマはケッと嘲笑った。
「剣なんて持ってるわけないだろ。これだよ」
左手に出したのは小刀だった。木筆(*先端を削りインクをつけて書く道具)を使うときに、削るのに使うものだ。
「それで何をしたのだ?」
「鞭を切った」
「鞭?」
「そこの野郎がなってないとか言って、鞭出してきて叩こうとするから、ふざけんなと思って」
見れば床には真っ二つになった馬用の鞭が落ちていた。
あまり褒められたことではないが、教師が鞭を持って、言うことをきかない子供を打つのはよくあることだ。
ルンビックはため息をつき、オヅマに言った。
「先生はお前の間違いを正そうとしたのだろう」
「間違いってなんだよ! 頭を下げる角度云々言って、グイグイ頭押してくるから、痛いって手を払っただけだろ。そうしたらコイツが逆上して、鞭持っていきなり叩いてくるから」
どうやら礼法教師は最初の授業ということもあり、今後、馬鹿にされぬために、権威を示したかったようだ。しかし相手が悪かった。
オヅマはまたふてぶてしく言い放つ。
「フン。自分の思い通りにならないからって、鞭打つ奴の礼儀作法なんぞ習う必要もない」
ルンビックはサビエルに先生を引き取らせるように頼んで、オヅマをとりあえず椅子に座らせた。
床に落ちていた鞭を拾って切り口を見れば、見事なほどにスッパリときれいに切られている。さすがは
ルンビックはしかし、オヅマの前にある机の上にその鞭を放り投げた。
「礼を知らぬは、猛獣の類と変わりない。そのままでは小公爵様にとって、
「フン。礼儀を教わるなら、最低限『礼儀』を知っている人間に教わりたいもんだ」
「成程」
ルンビックはまた頷いた。しかし納得したわけでないのは、いつものことだ。
しばらく考えてから、ポケットから鍵を取り出して机に置いた。
「なんだよ?」
「これは私の執務室の鍵だ。すまぬが、本館にある私の執務室に行ってきて、机の上に置いてある眼鏡を取ってきてもらえるかな?」
「はぁ? なんで俺が……」
「このアールリンデンにおいて、お前にどうして礼が必要なのかを、お前自身が知るべきであろうと思うのでな」
ルンビックが漂わせる峻厳な風格は、さっきまでの礼法教師とは比べ物にならない。
オヅマは不承不承に鍵を取ってポケットに突っ込むと、部屋を出た。
とりあえず本館へと向かって、その辺りで仕事をしている女中にルンビックの執務室を尋ねた。
「……誰です? あなた」
女中は見慣れない顔のオヅマに、不信感もあらわに問うてくる。
オヅマのいる世嗣用の西館 ―― 別名
「あ……俺、いや僕は小公爵さまの近侍の……」
言いかけるや否や、女中は表情を変えた。気まずそうに目を逸らすと「ごめんだけど、他の人に聞いて」と、逃げるように行ってしまった。
「は? なんだあれ?」
オヅマは呆気にとられたが、気にしても仕方ない。
ちょうど通りかかって、その状況を見ていたらしい従僕と目が合ったので、声をかけた。
「あの、すみません。家令のルンビック様の執務室を探しているのですが……」
若い従僕は曖昧な笑みを浮かべると、手を振って「僕わかんない」と、これまたどこかへ行ってしまう。
オヅマはその後にも何人かの召使いに声をかけたが、誰も彼もオヅマが小公爵付きの近侍であることを聞くと、目を逸らして、そそくさと逃げてしまう。
どういうことだ?
考え込んでいると、肩を叩かれた。
ハッと顔を上げると、そこには丸顔の中年の従僕が、笑みを貼りつかせて立っていた。
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