第百九十九話 小公爵との対面

「はじめまして、キャレ。着いて早々、喧嘩に巻き込まれて大変だったね」


 小公爵の第一声は優しかった。

 キャレは驚いて思わず顔を上げた。


 入ってきた時には、黒檀色の髪と鳶色の瞳の、公爵に似ているという端正な顔が冷たく思えて、すぐに頭を下げたのだが、今、微笑を浮かべたその表情はやわらかく、穏やかで、安心感さえある。


「どうした?」


 固まったキャレに、オヅマが声をかけてくる。

 自分の状況を思い出し、キャレはあわててふたたび頭を下げた。


「おっ、お初にお目にかかります。ファルミナ領主セバスティアン・オルグレン男爵の息子のキャレ・オルグレンと申します。本日、小公爵様にお会いできる機会を与えて頂いたこと、誠に嬉しく、ありがたき幸せにございます」

「こちらこそ。いいよ、もう顔を上げて」 

「は……」


 キャレはそのまま上げそうになって、あわてて止まった。貴人に対して、一度の許しで頭を上げることは不敬にあたる…と、騎士から聞いた儀礼についての話を思い出す。

 なかなか頭を上げないキャレに小公爵がふたたび言った。


「いいから、顔を上げて、キャレ。今後は僕がいいと言ったら、一度目で顔を上げてくれ」


 ややあきれたように言われて、キャレはおずおずと顔を上げた。


「礼儀というのは必要だけど、不要な部分もあるね。こんな意味のない習慣はなくなっていいと思うんだけどな…」


 面倒そうにつぶやく小公爵に、マティアスがしかつめらしい顔で滔々と述べる。


「意味がないということはございません。礼儀というのは、指標ガイドだと、私の作法の教師は申しておりました。これがなくては、人はどのように行動すればいいのかわからなくなってしまいます。特に下々の者などは」


 小公爵は「そうかな?」と肩をすくめてから、キャレに視線を戻す。まじまじと見つめてから、感嘆の吐息をついた。


「確かにオルグレン家の人に違いないね、その髪の色は。見事なものだな。父親のオルグレン男爵よりも美しいルビーレッドだ」

「とんでもございません」


 キャレはすぐさま否定する。

 謙遜ではない。この髪をちょっとでも自慢しようものなら、父も兄も烈火の如く怒った。庶子の自分が、オルグレンの紅玉ルビーの髪を持って生まれたことすらも、彼らには苛立たしく腹立たしい。

 たとえここに彼らがいなくとも、どういった経緯で彼らの耳に入るかもしれないと思うと、キャレはなんとしても否定したかった。


 小公爵は断固としたキャレの口調に首を傾げたものの、それ以上、髪については言わなかった。


「じゃあ、改めて自己紹介しようか。僕はアドリアン・グレヴィリウスだ。アドルと呼んでくれていいけど、今のところ実践してくれているのは、オヅマくらいだ」


 鳶色の瞳はチラリとオヅマを見た。

 マティアスは苦虫を噛み潰したような顔になり、エーリクも直立しながら、茶色の瞳だけをジロリとオヅマに向ける。小公爵 ―― アドリアンの隣の椅子に座っていた、柑子こうじ色の髪のやや小太りな少年も、恨めしそうな目でオヅマを見ていた。

 それぞれの表情から、キャレは彼らの勢力均衡がだいたい理解できた。


 おそらく近侍たちはほぼ全員、オヅマに対していい感情を持っていない。

 キャレが油断なく観察している間も、アドリアン小公爵の話は続いていた。


「オヅマとマティが犬猿の仲であるのは、さっきのでわかったよね? たいがいはつまらないことで喧嘩しているだけだから放っておいてもいいけど、どうしても困ったらエーリクか僕に言ってくれ。エーリクはもう自己紹介は済んだ?」


 問いかけに、エーリクは無言で頷く。

 あまりに愛想のない態度にアドリアンは苦笑いしていたが、咎めることはなかった。

 すぐに隣に座る柑子色の髪の少年に声をかける。


「じゃあ、残るはテリィだけみたいだ」

「あ…は、は、は…はい」


『テリィ』と呼ばれた少年は立ち上がって、キャレと向かい合った。


 座っているときには縮こまっていたので気付かなかったが、わりと大柄でな体型をしている。ぷっくり膨れたお腹あたりの、どうにかして留めたボタンがいまにも弾けそうだ。

 やわらかそうな柑子色の髪は、ゆるやかに波打っているが、耳の上あたりで一房ピンとはねていた。寝癖だろうか。草色の瞳はキャレを警戒しつつ、すぐに逃げる算段をしている小動物的なひ弱さと、ずるさが入り混じっていた。


「あ、あ、あ……あの、え、え……ちゃ、チャリス…チャリステリオ・テルン」


 そこまで言ってから、チャリステリオはハアァーと一息ついた。


「まったく。自分の名前くらいスラスラ言えないのか」


 案の定、マティアスがイライラと突っ込む。チャリステリオの顔が一気に青ざめた。


「マティアス、静かに」


 おだやかにたしなめつつ、アドリアンの鳶色の目がすっと細められると、マティアスはバツ悪そうに口を噤んだ。

 しかし静かな空気がチャリステリオには余計にプレッシャーだったのか、なかなか口を開かない。


「テリィ、僕から紹介してもいい?」


 とうとうアドリアンに言われると、チャリステリオは待っていたかのように何度も頷いた。


「彼はテルン子爵家の嫡男のチャリステリオ・テルン。ちょっと緊張しやすくてね。ピアノがとても上手なんだよ。今度、聴かせてもらう機会もあるだろう。あ、チャリステリオって長いから、テリィって呼んでる。年は僕らより二つ年上だ。キャレは確か黒鳩こっきゅうの年生まれだったと聞いてるけど、合ってる?」

「あ、はい」

「じゃあ、僕と同じ年だ。良かった。全員年上じゃなくて」


 ニコリと微笑まれ、キャレは思わず顔を赤らめた。

 普通にしていると端正な顔立ちは、むしろとっつきにくく見えるのに、笑った途端に少年らしいあどけなさが浮かぶ。


 この先、この顔に慣れるのだろうか…と、我が事ながらキャレは心配になった。

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