第百九十六話 ようこそ、アールリンデンへ

 ようやく小公爵の住居であるアールリンデン公爵本邸の西館に着いた頃には、キャレは緊張が続きすぎて、ぐったりしていた。

 それでも本番はここからなのだ。気を奮い立たせて、停車した馬車からゆっくり降りる。


 西館の玄関前庭園はさすがに先程通り過ぎた正面玄関ほど壮麗なものではなかったが、それでもファルミナの領主屋敷の玄関前よりも広く、きれいに整備されていた。

 中央の噴水には羽のある少女像が水甕みずがめを持って、そこから水が放物線を描いて落ちている。その周囲を囲む冬枯れの芝生は、ほんのりと雪に覆われていた。

 正面玄関から続いてきた石畳の道は、この噴水周りをぐるりと囲んで、一つは西館脇の道へと細く伸び、一つは来た道に戻るように作られている。脇への道はおそらく厩舎にでも繋がっているのだろう。


 館の周囲には一定間隔で配された七竈ナナカマドの木が、赤い実をつけていた。

 この木は小公爵の住まいである西館を象徴する木で、そのために西館は別名を七竈ナナカマドの館、引いては小公爵自身を示す隠喩としても使われる。…というのは、キャレがファルミナにいた頃に、唯一親しく話すことができた騎士のおじさんから聞いた話だ。


 庭園の隅に並んだ花壇は、まだ春と呼ぶには早い季節であるせいか、何も植わっていない。淡いベージュ色の煉瓦が積まれて作られた花壇の中央部分にはタイルが嵌め込まれており、そこにはスズランの絵が描かれていた。おそらく春になれば、この花壇にはグレヴィリウス家の象徴であるスズランの花が並び咲くに違いない。


 そんなことをキャレがボンヤリ考えている間に、乗ってきた馬車は西館脇へと続く石畳の道を去って行ってしまった。

 一人取り残されたキャレは途方に暮れる。困惑と怯えを浮かべたオリーブグリーンの瞳が、キョロキョロと辺りを見回す。


「ようこそ、アールリンデンへ」


 いきなり呼びかけられてキャレはビクリと震えた。

 本来、歓待を示すその言葉に身構えてしまったのは、そこに人を見下すかのような横柄さが滲んでいたからだろう。すぐさまキャレの脳裏に長兄の姿が浮かび、声の主を見る顔が強張る。


 見上げた先、幾何学模様の彫刻がされた玄関扉の前に立っていたのは、金髪を後ろにきれいに撫でつけた、いかにも近侍らしい身なりのきちんとした少年だった。

 細いターコイズブルーの瞳が鋭くキャレを見て、素早く品定めする。


 キャレは一気に気まずくなって、身をすぼめた。

 その様子に少年はフンと明らかに見下した笑みを浮かべる。この時点でキャレは少年よりも下の地位になってしまったようだ。


「失礼だが、まずは貴君の名前を伺おうか」


 自分の名乗りをせずに、相手の名を問う時点で、それは決定的だった。

 キャレは憂いた顔で、ボソボソと名乗った。


「キャレ・オルグレンです」

「………どこのオルグレンだと?」


 少年は眉を寄せて、馬鹿にしたように尋ねてくる。

 そんなこと、本当は言わなくてもわかっているだろうに。

 オルグレン男爵家からキャレが小公爵様付きの近侍として行くことは、既に連絡がきているだろうし、こうして来るのがわかっているから待ち構えていたに違いないのだから。

 それでも格式を重んじる貴族であれば、名乗りすらまともに出来ぬことは恥とされる。


「ファルミナ領主、セバスティアン・マレク・オルグレンの息子であるキャレ・オルグレンです」

「………で?」


 少年は厭味ったらしく問いかけてくる。キャレが困惑して黙り込むと、大仰にため息をついて肩をすくめた。


「やれやれ、さすがに庶子というだけあって、まともな教育も受けていないのだな」


 キャレはカッと赤くなった。やはり、そのことも伝えられていたのか…と深く恥じ入る。

 しかし庶子とわかっているのに受け入れてくれるとは、公爵家はずいぶんと寛大だ。それともやはり兄の態度からしてもそうであるように、小公爵様は家臣らから相当に侮られているのだろうか。


 どうやら自分はあまり将来に期待が持てない人に仕えることになったらしい…と、キャレが暗澹とした気分でいると、溌剌と張りのある声が響いた。


「なんだよ、まだそこにいたのか、お前ら」


 振り向けば、亜麻色の髪の少年が建物横の小道からこちらに歩いてくる。

 おそらく、さっきの先導役の少年だろう。約束通りに馭者を案内してくれたようだ。

 お礼を言おうかと思ったが、先に金髪の少年が怒鳴りつけた。


「オヅマ、貴様…なんだその格好は!」


 オヅマ…と呼ばれた亜麻色の髪の少年が、面倒そうに首を傾げる。


「なにが?」

「上着はどうした? クラバットをしろと、いつも言っているだろうが!」

「うるせぇなぁ。クラバットなんぞつけてられっか、鬱陶しい。上着はキツイし」

「新しいのが届くまでは我慢して着ろ!」


 亜麻色の髪の少年はハァとあらぬ方を向いてため息をつくと、相手にするだけ無駄とばかりにキャレの方へと視線を向ける。薄紫の瞳がじっとキャレを見つめてきたが、先程の金髪の少年の品定めするかのような視線と違って、純然と興味深そうな様子だった。


「すっげー髪だな。柘榴ザクロみたいな色じゃねぇ?」

「あ……」


 キャレがどう言えばいいのか困っていると、金髪の少年はまたフンとあきれたように鼻を鳴らす。


「オルグレン家の紅毛あかげといえば有名だろうが。そんなことも知らないのか、貴様」

「その程度のこと覚えてるからって、いちいちひけらかすようなことでもねぇだろ。ほんっとにお前、自慢したがりだよな」

「なっ!」


 怒鳴りつけようとした金髪の少年を無視して、亜麻色の髪の少年はキャレに手を差し出してきた。


「俺、オヅマな。あーと…一応、オヅマ・クランツって名前だ。お前は?」

「キャレ・オルグレン…です」


 やや遠慮がちに言いながらキャレも手を出すと、オヅマはぐっと握手した。


「おう、キャレか。言いやすいな。よろしく」

「………よろしくお願いします」


 思っていたよりも強い力に、キャレはドキリとした。また小さく体が縮こまりそうになる。


「こいつの名前聞いたか?」


 オヅマが金髪の少年を指さして尋ねてくるので、キャレは素直に首を振った。


「なんだよ、まだ言ってないのか? っとに、いちいち勿体ぶるよなぁ」


 あきれたように言いながら、首筋をポリポリ掻く。

 金髪の少年はさっきからのオヅマの態度に怒り心頭のようだった。


「なっ…ぼっ、僕は……注意してやっているんだろうが!」

「注意する前に自己紹介くらいしろよ。あ、こいつの名前はマティアスな。怒りん坊マティって呼んだら、たいてい振り返る」

「誰が怒りん坊マティだ! マティアス・ブルッキネンだ。アハト・タルモ・ブルッキネン伯爵の息子にして、グレヴィリウスの青いほこ、ブルッキネン伯爵家のなる跡取り息子だ!」


 マティアスはわざわざ『正統』を強調して言ったが、オヅマはまったく意に介していないようだった。無視を決め込んで、キャレを館内にいざなう。


「じゃ、早く行こう。アドル…っじゃねぇ……小公爵さまがお待ちだから」

「よろしくお願いします」


 キャレは深々とお辞儀した。


 これでようやく公爵邸のに入れる。

 長かった。ファルミナ領を出てから長かったが、公爵家の門からここに至るまでの道が、最後の最後で追い打ちをかけるように延々と続いて、キャレは正直、疲労困憊だった。


 そうした感想を持ったのは、キャレだけではなかったようだ。

 オヅマは小公爵の部屋に案内しながら言った。


「門からここまで長かったろ~? 俺も初めてここに来たときにさぁ、長くて長くて、もう眠くって…」

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