第二部

第一章

第百九十五話 公爵邸への長い道

 ガタン、と大きく揺れて馬車は止まった。

 中に座っていたキャレ・オルグレンは、そっと窓のカーテンを開いた。オリーブグリーンの瞳が落ち着きなく外の様子を窺う。


 鹿のレリーフがされた美しい白の門柱と、磨き上げられた鍛鉄ロートアイアンの門が見えた。


 落ち着かない手が知らず知らず、パサついた硬い紅髪あかがみを掴む。


 馭者ぎょしゃがキャレのことを伝えると、門番は馬車の側面に取り付けられていたオルグレン家の紋章を確認し、馭者に二三、質問する。

 その答えを聞くと、おもむろに、大音声で呼ばわった。


「オルグレン男爵家、入場也ィ」


 門が声に合わせてゆっくりと開く。同時に門番小屋から白い鳩が飛び立った。おそらく公爵邸へ客の来訪をしらせる鳩だろう。

 馬車がふたたび走り始める。

 門のあたりは石畳の敷き詰められた開けた場所になっていたが、すぐにくねった並木道に入った。冬枯れのメタセコイアが、高く、わびしく、陰鬱な空に伸びている。


 とうとう、入ってしまった ―――


 キャレは唇を噛みしめると、腹を押さえた。

 キリキリ痛む。

 いずれ来る、やがて来ると思っていた日はあっという間にやって来て、キャレを逃さなかった。

 これから先のことを考えるだけで、背中に冷や汗が伝う。


***



 キャレが兄であるセオドア・オルグレンから、公爵嗣子であるアドリアン・グレヴィリウス小公爵の近侍きんじになるようされたのは、一月ひとつきほど前のことだった。


「小公爵と同じ年頃の近侍を…とのことでな。残念ながら我ら適当な年頃の男児はいない。仕方なく、貴様に白羽の矢が立ったというわけだ」


 その声音も、言葉も、彼がキャレのことを兄弟として認めていないことは明らかだった。

 セオドアはキャレよりも十歳年上の二十一歳。

 つややかなルビー色の髪はキャレと同じであったが、水色の瞳はいつも冷たい。深く刻まれた神経質そうな眉間の皺は額まで伸び、実年齢よりも十歳は老けて見えた。

 キャレにとっては幼い頃から頭を下げることが当然の存在で、単純に兄と慕うことは許されなかった。


 父であるファルミナ領主セバスティアン・オルグレン男爵には一番目の妻と、その後に迎えた二番目の妻との間に二人の息子と二人の娘がいたが、彼らとキャレは同等ではない。

 キャレの母はオルグレン家の下女で、たまたま酔った領主が気まぐれで手を出したに過ぎず、懐妊するなど想定外であったのだ。たとえ領主様の子供であったとしても、庶子などはまともに扱ってもらえるはずもない。


「で、でも…僕…」


 久しぶりに兄がこのみすぼらしい離れを訪れることだけでも、キャレ達にとっては驚くべきことで、その上、いきなりそんな話をされても困惑するしかなかった。

 何を言うべきなのかキャレが言葉を探していると、兄はまるでキャレの返事など最初から聞く気もないとばかりに立ち上がった。


「ま、あの小公爵であれば、貴様のような庶子風情がちょうど似合いというものだ」


 堂々と、目上であるはずの小公爵に対して無礼なことを言う兄に、キャレはビクビクしつつも注意した。


「そ、そんな…グレヴィリウスの小公爵様に、失礼なのでは…?」


 兄はジロリとキャレを見ると、一歩近寄って、キャレの真っ赤な髪を鷲掴みにした。


「誰に、何を、言っている? 私に諫言かんげんだと? んん? 貴様が? この私に?」

「す…みませ…」


 最後まで謝ることすら許してもらえなかった。

 兄は苛立たしげにキャレの髪を掴んだまま、椅子から引きずり下ろし、壁に向かってキャレを投げつける。容赦ない暴力にキャレはうぅ…と呻いて、床に転がった。


 兄は指の間に残ったキャレの千切れた真っ赤な髪を、嫌悪もあらわに見つめてつぶやいた。


「フン、忌々しい。下賤の血を引きながら、オルグレンの証を受け継ぐとは……」


 フッと吹いて指の間の髪を散らし、再び扉へと向かう。

 ドアノブに手をかけたところで、クルリと振り返って唇を歪めた。


行っても構わないぞ。長くとも、せいぜい四、五年……いや、うまくすれば来年にも片が付くだろうからな。だが、オルグレン家の名をけがすような真似はするな」



***


 キャレはあの時の兄の顔を思い出し、キュッと身を縮めた。

 兄は言ったのだ。『どちらでも』と。

 そう言えば、キャレ達がどういう選択をするのかをわかった上で。


 普通に考えれば、男爵家の庶子風情がグレヴィリウス大公爵様の跡継ぎである小公爵様に仕える…というだけでも不敬かもしれぬのに、その上でキャレの選択は無礼極まりない。

 バレれば即座に処断され、下手をすれば首が飛ぶかもしれない。


 にもかかわらず、兄は余裕綽々としていた。

 まるで小公爵様の不興をかっても構わない、とでも思っているかのようだった。

 だとすれば、兄にとってキャレは捨て駒同然だ。

 今は一応、小公爵の側にキャレを置いておく必要があるが、いざ何かあれば切り捨てる気だろう。

 兄の冷酷な水色の瞳を思い出し、キャレの胃がまたキリリと痛んだ。


 自分の先に続く道が、どんどん地獄に続いているように思える。

 それにしても長い。

 曲がりくねった道の先に、まだ公爵邸は見えない。

 気付けばメタセコイアの並木道は終わり、今度は糸杉の連なる並木となっていた。背の高い、太い幹の糸杉は百年をゆうに越しているように見える。何十本もの木々が百年ちかく、無事に成長してきたということが、グレヴィリウスという家の強固な歴史を表しているような気がする。


 キャレはブルリと震えた。

 この先、自分は戦場に赴くのだ。

 決して本心を出してはならず、決して


 キャレが覚悟した後も、糸杉の並木道はまだ続く。

 門に入ってから延々と続く道に、もしかすると公爵邸とは別の場所に向かっているのではないのか…と、疑い始めたとき、ようやく並木道が切れて、いきなり光が窓から差し込んできた。


「あぁ、やっと着いた~」


 安堵する馭者の声が聞こえてきた。彼もやはり長いと思っていたのだろう。


 ふたたび窓から覗いてみると、そこには有り得ないほど広大な庭園が広がっていた。

 きれいに刈り込まれたシュラブ、規則正しく植えられたモクレンやコブシの木。所々に雪の残る広大な一面の芝生と、同じくらい大きな池。やや急な勾配を降りて整備された道に沿ってゆけば、池から引かれた小さな人工の川の先に、噴水があった。馬車はその巨大な噴水の周囲に沿って進んでゆく。

 いくつかの馬車が、噴水正面の巨大な建物の前に停まっていた。


 ここがグレヴィリウス公爵家の本領邸。

 しかし小さな窓から見える程度であっても、そこは邸宅というより、もはや城だった。

 さすがにパルスナ帝国がまだ小さな王国であった頃から、功臣を輩出してきた家柄であれば、ここまで宏壮で雄大な居城を持つに至るのだろう。


 馬車が止まる。

 キャレはここで降りるのかと腰を浮かしかけたが、外から馭者と話している大声が聞こえた。


「案内するから、ついてきてくれ」


 公爵家の使用人だろうか? ずいぶんと若い声だ。


「ここじゃないのか?」


 遠くファルミナからキャレ一人のために長旅をしてきた馭者は、うんざりしたように返す。


「ここで降りてもいいけど、小公爵様の別館までまた歩かないといけないんだよ。これがまた長いんだ。それにアンタだって、ここだと用が済んだら、とっとと出てけと追い出されちまうぜ。あっちだったら、とりあえずホットワインにビスキュイぐらいは用意してある」


 くだけた口調だったが、寒い中、ずっと外で手綱を握っていた馭者をいたわってくれているのは伝わってきた。

 声の主に興味がわいて、キャレは窓から覗き見たが、亜麻色の後頭部が見えただけだった。馬に乗っているらしい。キャレとそう変わらない年の少年のようだ。


「オホッ、ありがてぇ。じゃ、そっちに行くとしよう」


 馭者はあっさりワインにつられて、再び馬に鞭を当てる。

 先導する少年のあとに続いて、また馬車は動き出した。

 反動で再び座席シートにドシンと座る羽目になってから、キャレはため息をついた。


 公爵邸の門をくぐってから、何度も覚悟して疲れてきた。

 こうなると、もう早くたどり着いてほしい。……


「………長い」


 キャレはムッスリとつぶやいた。

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