コップのお花と領主様 後編
騎士団の演習から戻ってきたヴァルナルは、すぐに執務室に飾られた花瓶の花に気付いて、眉を寄せた。
無言で椅子に腰掛けて、机を見回すがマリーの活けてくれたコップの花はない。コップすらなくなっていた。
コツコツコツ、と人差し指で机を叩く。
すぐにパシリコが執事を呼んできた。
ネストリは帰館時に挨拶と簡単な報告を済ませたのに、すぐにまた呼ばれたので、内心首を傾げながら、慇懃な様子で領主の前に立った。
「なにか御用でございましょうか?」
「……これは?」
ヴァルナルが執務机の上に置かれた豪勢な花を指さして尋ねると、ネストリは「ああ」と頷いてから、頭を下げた。
「お気に召さなかったでしょうか? アントンソン夫人に頼んだのですが……」
「そういうことじゃない。誰がこんなものを置くように言った?」
「は? あ、あの……いえ、ドーリからこの数日、執務机に……その……大変みすぼらしいコップに、そこいらの野花を摘んだだけの花が飾ってあると聞き及びまして、それで……」
話しながら、ネストリは首筋からじっとりと汗が噴き出してきた。
ヴァルナルの表情は変わりないように見えるが、グレーの瞳が刺すように自分を睨んでいるような気がする。
「それで、領主様の執務室にそのようなわびしい花を飾っておくのは申し訳ないと思い……きちんと花瓶に、相応の花を飾っておくべきかと……思い……まして」
ヴァルナルの視線がだんだん重くなって、ネストリの頭は自然と頭が下がっていく。ひとまず謝ったほうがいいかと口を開きかけると、ヴァルナルが軽く手を上げて制した。
「そうか。気遣いをさせたな。だが、悪いがこの花瓶は必要ない。正直、執務の邪魔になるのでな。片付けてくれ、今すぐに」
存外、ヴァルナルの口調は普段の仕事を命じるときと変わらなかった。
ネストリはかしこまって、花瓶を持ち上げた。
まぁまぁ大きな花瓶だったので、中の水と合わせると相当な重量だった。ブルブルとネストリの二の腕が震える。
そのまま出て行こうとして、ヴァルナルに呼び止められた。
「それで、ここに置いてあったコップの花は?」
「そ、それは……ドーリに持って行かせたので……」
「ではドーリに持ってくるように言え」
「は……はい」
ネストリはとりあえず花瓶を片付けた後、すぐさまドーリを呼んだ。
執事の機嫌が相当に悪いと同僚から聞いて、頭も低く現れたドーリに、待っていたとばかりに大声で怒鳴りつける。
「貴様が余計なことを言うから、あんな重いものを運ぶ羽目になったじゃないか! 執務机に置いてあるものなど、領主様のものであるのだから、余計な詮索をしなければいいものを! とっととあのコップと花を元通りにしておけ!!」
ドーリはさすがにネストリの勝手な言い分に腹を立てたが、たかが下女風情が執事の言うことに逆らっても、後々面倒になるだけと荒い鼻息を吐いて落ち着かせた。それから再び厨房に向かい、ミーナに尋ねた。
「ごめんだけど、さっきのコップ……やっぱり戻しておけって言われたのよ。どこにあるの?」
「え? コップは……」
ミーナは視線をさまよわせた。
あの後、意気消沈したマリーはコップを持って小屋に戻ってしまった。今はパウル爺と草むしりをしているはずだ。
「マリーが持って行ってしまって……」
「あら、困ったわね。どうもあのコップの花が良かったみたいなのよ」
ミーナはついさっきまでとはまったく違った状況に、目を丸くして尋ねた。
「あの……いったい、何が?」
「さぁ? なにがなんだかよ、私も。私はいつも通りに掃除して、ここのところ執務机にコップに活けられた花が飾ってある、って言っただけなのにさ。ネストリの野郎が勝手にみすぼらしいだのと抜かして、アントンソン夫人にまで頼んで花を活けてもらったってのに、結局、領主様はお気に召さなかったみたいなの。こってり叱られたんじゃない? ともかく、あのコップの花の方を戻しておけってさ。本当に勝手だよ。いい迷惑」
ドーリは理不尽な執事のことを思い出して、さんざ文句を言い連ねてから、ハアーッとため息をついた。
ミーナはしばらく考えてから、ドーリに申し出た。
「あの……よろしければマリーに伝えて、マリーに持っていかせましょうか? ドーリさんもお忙しいでしょうし」
「あら? そうしてくれる? そうね。領主様もマリーだったら、子供だから怒ったりしないわよ。私もネストリの野郎にさんざ叱られたってのに、この上、また領主様にまで文句言われるのはキツイしさ」
ドーリは自分がこのケチのついた仕事から逃れられるとわかると、スッキリした様子で厨房から出て行った。
ミーナは手早く下拵えを済ませた後、庭にいるマリーに声をかけた。
「マリー。さっきのコップは小屋にあるの?」
「うん。もう使わないから、戸棚の奥に置いた」
「じゃあ、もう一度、あのコップにお花を活けて持って行きましょう。領主様は、マリーの用意したお花がよろしいんですって」
「…………」
てっきり喜ぶだろうと思っていたマリーの顔は、また沈んだ。
「どうしたの? 領主様のお部屋のお花を飾るおしごと、よ」
「でも、みすぼらしいん……でしょ?」
か細い声で言うマリーに、ミーナは微笑みながらそっと頭をなでた。
「そんなことないわ。お母さんはマリーが選んだお花はかわいらしくて好きよ」
「でも……」
「じゃあ、とりあえず持って行って、領主様に尋ねてみましょうか。本当に必要じゃなかったら、正直に
マリーはそれでも浮かない顔だったが、ミーナが一緒に行ってくれると言うので、さっきバラバラに散ってしまった勇気を集めて、もう一度ヴァルナルの待つ執務室へと向かった。
それでも大きな扉の前に来ると、気持ちが沈む。
マリーはあの時入った執務室の重厚な雰囲気を思い出した。
確かにあの重苦しい雰囲気を和らげようと花を飾ることを思いついたものの、自分の持っているコップに入っている小さな花々はあまりにも貧相でみすぼらしい。
どう考えたって、立派な花瓶に活けられた、パウル爺が丹精して育てた温室の花を飾った方が、派手で見栄えもいいだろう。
「マリー? どうしたの?」
「……やっぱりいい」
マリーは回れ右して立ち去りかけたが、その時、扉が開いてパシリコが顔を覗かせた。
ミーナとマリーをそれぞれ一瞥した後に声をかけてくる。
「ご領主様がお呼びです。中に入るようにと」
「あ……はい」
ミーナは頷くと、その場に踏ん張って動こうとしないマリーの背を軽く押す。
「マリー……入りましょう」
「……やだ!」
「マリー、きっと大丈夫よ」
ミーナは優しく励ましたが、マリーの顔はギュッと眉を寄せたまま固まっている。
困っていると、ヴァルナルが出てきた。マリーの姿を見て、ニコリと笑って
「持ってきてくれて、ありがとう。マリー」
受け取ろうと手を伸ばしたが、マリーは花の入ったコップを抱きしめるように持ってプルプルと頭を振った。
「駄目なの」
目を真っ赤にしながら、震える声でマリーがつぶやく。
ヴァルナルは首を傾げた。
「なにが駄目なんだ?」
「だって……私のお花、みすぼらしいの。小さくて、みっともないの」
「そうだろうか? マリーはそう思うのか?」
反対に尋ねられ、マリーは困ったように黙り込む。
ヴァルナルはポンと優しくマリーの頭に手をやった。
「マリー。私はね、正直、花のことはよくわからない。しかし、仕事の途中で君の花を眺めるのは大好きなんだよ。どうしてだと思う?」
「……お花がきれいだから?」
「そうだな。それもある。だけど、それ以上に君が私のために選んで摘んでくれたことが嬉しいと思うんだよ。仕事で疲れたときに、マリーの花を見たらそういう気持ちを思い出して、とても心が休まるんだ。だから、この数日はとても仕事がはかどった。ロンタの実が必要なかったくらいだ」
マリーはあの酸っぱさを思い出して、ゴクリと唾を飲み込んだ。
顔を上げると、あのときと同じヴァルナルの笑顔があった。
マリーはもう一度、持っているコップの花を見つめた。
ピンクの
どれも頼りなげではかない。
確かにみすぼらしくも見えるのだろう。
けれど……どの花も美しく、力強いのだ。花はそこに咲いているだけで、どんなに傷ついた心でも、元気づけてくれるのだから。
マリーがコップを差し出すと、ヴァルナルは受け取って、深々と頭を下げた。
「ありがとう、マリー。これからもお願いするよ」
「はい! 頑張ります!」
ヴァルナルは微笑んで立ち上がると、くしゃくしゃとマリーの頭を撫でた。
ちょっと力が入って荒々しかったが、マリーにはその強さがヴァルナルの愛情に思えた。
◆
ミーナは例の
「そういえば…」
たまたまマリーの話題となったときに、ヴァルナルはマリーと出くわした
「……怖がらせてしまったかと思って、なるべく小さくなって話しかけたんだが」
ミーナは話を聞きながらその時の様子を思い浮かべて笑っていたが、ふと思い出すことがあって、途端に目の前のヴァルナルに申し訳ない気持ちになった。
「あのときは……すみません」
「ん? どうして謝る?」
ヴァルナルがキョトンとして、うつむくミーナに尋ねる。
ミーナはしばらくどう言えばいいのかと迷っていたが、思いきって白状した。
「あのとき私、誤解して……領主様にその、少し……腹が立ってしまいまして」
「え?」
「最初、ドーリさんがマリーの飾ったコップの花を持ってきた時に、すっかり領主様のご指示だと思って、こんなにあからさまに邪険にしなくてもいいのに………と、ちょっと恨んでしまったんです」
「…………」
ヴァルナルは唖然として黙りこくった。
ミーナは上目遣いにヴァルナルを見て、身を縮めると、もう一度謝った。
「本当に申し訳ございません! まだ勤め始めて間もない頃とはいえ……失礼な勘違いでした。今後は気をつけます」
真面目くさって頭を下げるミーナをまじまじと見つめた後、ヴァルナルは耐えられないように大笑いした。しばらく笑い続けるので、今度はミーナがキョトンとなった。
「ハハッ! いや……何を言い出すかと思えば、わざわざ自分からそんなこと言うなんて……本当に
ミーナはヴァルナルに指摘されて少しきまり悪かったが、いつまでもヴァルナルが肩を震わせて笑っているので、さすがに注意した。
「そんなに笑うことではありませんわ」
「いや、確かにそうだ。貴女が誠実な人だということがわかって何よりだ」
ヴァルナルは言ってから、どうにか笑いを収めると、再びミーナを見つめた。
さっきまで大笑いしていたのに、今度はやや微笑を浮かべながら自分をじっと見つめてくるヴァルナルに、ミーナは首をかしげた。
「なにか……?」
「いや」
ヴァルナルはフッと目を伏せると、少しはにかみつつ、つぶやいた。
「貴女がここに来てくれて良かったと、思ったんだ」
ミーナはその言葉をまともに受け取って、真っ赤になってうつむいたが、すぐに心の中で注釈を加えた。
―――― 違うわ。私が来たことで、マリーやオヅマが来てくれたことが嬉しいと
フゥ、と息を吐いて心を落ち着けてから、ミーナは顔を上げた。ヴァルナルの顔が少し赤いように見えたが、気のせいだと思うことにした。
*** ** ***
この頑ななミーナの心が
彼らが晴れて結婚し、ヴァルナルの娘となった後も、マリーは父親の執務室にコップの花を飾る仕事はやめなかった。
「これは私の最初の仕事。これからもずっと続けるの。前は領主様のため。今はお父様のためにね!」
【END】
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