番外編Ⅰ

コップのお花と領主様 前編

 これはまだ、オヅマ達家族が、レーゲンブルト領主館にやって来て間もない頃のお話 ――――



*** ** ***



 ―――― ここ、どこ…?


 マリーは広い領主館の中で迷子になっていた。


 さっきまで母のあとについて歩いていたと思っていた。

 ちょっと、中に入り込んでしまった可哀相なを逃がしてあげたいと思って、窓に誘導してあげたのだ。

 窓の外からの花の匂いに誘われたのか、は出ていった。

 ホッとしたのも束の間、マリーは今、自分のいる場所がどこなのかわからないことに気付いた。


「お……お、おかあさーん」


 そっと母を呼ぶ。

 館の中で大声を出してはいけないと言われていたので、本当は叫びたいのを必死にこらえて、マリーはなるべく小さな、それでも近くにいる母が気付いてくれるようにと、細心の注意をはらって呼びかけた。

 しかし、近くにいないのか母が来てくれる様子はない。


 マリーはそろそろと自分が来た(と思われる)方向へと歩き出した。

 確か、どこか角を曲がったのだ。

 何度、曲がったろう? 一度じゃなかったような気がする。

 あのは気まぐれで、あっちに行ったりこっちに行ったり戻ったりしていたから。


 マリーはおぼろげな記憶で歩き回ったが、やがて昼間でも薄暗い廊下の中途で立ち止まると、急に不安でたまらなくなってきた。


「おかあさん……」


 震える声で呼ぶが、やさしい母の声は聞こえない。


「……おにいちゃん……」


 か細い声で兄を呼ぶと、マリーの脳裏に、めずらしくかしこまった顔で話すオヅマの姿が浮かんだ。 



 ―――― いいな、マリー。俺たちはこれから領主様のお館で働くんだ。ほとんどは母さんと俺が働くけど、お前もやれることはやるんだぞ。一緒に、母さんを助けてやろうな。


 ―――― うん!



 レーゲンブルトの領主館に行く前日、オヅマはそう言ってくれた。

 マリーはうれしかった。オヅマはマリーを厄介者扱いしたりしない。小さくともできることはある、と認めてくれた兄の役に立ちたかった。


 マリーは涙を浮かべていた目をごしごしこすると、顔を上げた。

 スゥと息を吸って、大きく吐くと、ゆっくり前に歩き出した。


 とにかく一方向に歩いていこう。

 いくら大きくとも館の中なのだ。そのうちどこかに辿り着くし、誰かに会えるはずだ。

 きっと怒られるだろうけど、そのときには素直に迷子になったと言って、必死に謝ろう。


 そうして暗い廊下を進んでいったとき、どこかでバタンと扉が閉まって、誰かが歩く音が聞こえた。

 マリーはビクリとしたが、あわててその足音に向かって走っていった。

 しかし角を曲がったときには、もうその足音は聞こえず、足音の主の姿もなかった。


 しょんぼりしながら、そのまま進んでいくと、大きな扉の前に辿り着いた。

 さっきの扉の音はこれだろうか?

 マリーはその頑丈そうな大きな扉を見上げた。


 すると急に扉が開き、


「誰だ?」


と鋭く誰何すいかする声と一緒に、巨大な影がヌゥっと現れた。


「…ヒャッ!」


 マリーはすっかり神話か物語に出てくる凶悪な巨人が出てきたのかと思って、腰を抜かした。ガタガタ震えて、さっきまで必死にこらえていた涙が溢れ出す。


 だが巨人はすぐに小さくなった。

 マリーの前に跪き、小さな姿になって、優しい声で呼びかけてくる。


「すまないね…驚かせてしまったようだ……大丈夫かい?」


 思いもよらないやわらかな声音に、マリーは反対にびっくりしてしまった。

 よくよく見れば、その人は巨人ではない。

 灰色の瞳は心配そうにマリーを見て、怖がらせまいと一生懸命身を縮めている姿は、ちょっと面白かった。

 少し気持ちに余裕ができると、目の前の大人をようやくまともに見れるようになって、その人の赤銅色の髪を見た途端に、マリーは「あっ!」と立ち上がった。


「ご、ごめんなさい! りょうしゅしゃま!」


 あわてて早口になったせいで、赤ちゃんみたいな言葉になった自分に真っ赤になる。

 ここにいることも含めて、きっと怒られるんだとマリーは身を固くしたが、


「ハハハッ!」


 は、おかしそうに笑った。

 それからマリーの名を呼んだ。


「マリー…といったかな? オヅマの妹の」

「はい! あの…ごめんなさい、領主。私、迷子になってしまったんです。勝手にウロウロしてしまって、ごめんなさい」


 懸命に謝罪しながら、マリーはまたボロボロと泣けてきてしまった。

 怒られなかったのにはホッとしたものの、自分がこんなところにいたことで、もしかしたら母や兄が代わりに怒られるのかと思うと、申し訳なくて情けない。


「あっ、あぅ…あの…私がっ…私が悪いからあっ……」


 嗚咽に喉をつまらせながら何とか謝ろうとするマリーに、領主ヴァルナルは驚きつつも、そうっと頭をなでた。


「大丈夫だ。怒ったりはしないよ。しかし困ったね。誰かいない…………な」


 ヴァルナルは辺りを見回してから、ふぅと息をつくと、マリーに手を差し出した。


「とりあえずこっちにおいで」


 マリーは泣きながらも、その大きな手を掴んだ。


 いつもは大人の男の人の手なんて怖くて触ろうなんて思わない。

 パウル爺はおじいさんだから怖くなかったが、目の前の人は亡くなった父と同じくらいの大人の人で、しかも領主様だ。

 本当だったら恐ろしくて逃げたい気持ちになってもおかしくないのに、不思議と目の前の人には恐怖を感じなかった。

 むしろ、マリーに遠慮しているかのような、壊れ物をそっと扱うかのような気遣いを感じる。


 立ち上がって、ヴァルナルと一緒にその部屋に入ったマリーは、壁一面の本と、奥に鎮座する立派な執務机、鈍く輝く磨かれた鎧、壁に架けられている二つの旗などから醸し出される重厚な雰囲気に圧倒された。


 ヴァルナルに勧められるままにソファに腰かける。

 ぼーっとマリーが部屋を見回している間、ヴァルナルはあちこちに視線をさまよわせてから、ハッと何か思いついたように、執務机の抽斗ひきだしから小さな瓶を取り出した。

 その瓶を片手に、マリーの前のソファに腰かけると、蓋を開けて、中から小さな赤い実のようなものを数粒、手のひらにのせた。


「食べてごらん。おいしいかは……わからないが」


 そう言って、ヴァルナルは赤い実の乗った、分厚い手のひらを伸ばしてくる。

 マリーはその見たことのない赤い実を一粒、つまんだ。ジイッと見つめる。赤い実はぷっくりと丸く膨れて、ツヤのある光を帯びていた。


 ヴァルナルは手のひらにあった実を全部口に放り込み、二三度咀嚼する。「む……」と、眉を顰めて少し唸った。

 マリーはヴァルナルの顔をそっと窺った。

 気づいたヴァルナルが、ぎこちない笑みを浮かべる。


 マリーは赤い実を口に含んだ。

 プチリ、と皮を破った途端 ―――


「酸っっっっぱーーーいッ!!!」


 口中にひろがった酸味に、マリーは口をすぼめて目もすぼまった。


「だ、駄目だったか?! 嫌なら出しなさい。ここに出せばいいから」


 ヴァルナルはあわててマリーの口の先に両手を受け皿のようにして出してくれる。

 マリーは目をギュッとつむって、口をしっかり閉じながらも、フルフルと首を振った。

 しばらくすると徐々に酸っぱさはなくなり、湧き出した唾液と混ざってかすかに甘くなる。

 マリーはその甘い唾をゴクンと飲み込むと、目を開いた。


「酸っぱかったけど、おいしい!」


 マリーの笑顔を見て、ヴァルナルはホッとしたようだった。


「それは良かった。実はこれは眠気覚ましでね。ついつい仕事中にウトウトしそうなときに、食べるんだ」

「そんな大事なものいただいて、すみません」

「いやいや。そんな大したものでもないよ。おいしかったのなら、あげようか?」

「いいえ。これは領主様のお仕事に必要なものですから、いただけません!」


 きっぱりと断るマリーに、ヴァルナルは楽しげに微笑むと、その実について詳しく教えてくれた。

 この実はロンタの実といって、マリーが今食べた部分は実際には種らしい。レーゲンブルトのような寒い場所では採れず、東南部のズァーデン地方の特産品で、あちらでは染料や、傷薬としても使うのだという。


 ちょうどその時に、ヴァルナルの副官であるカールが戻ってきた。


「何事ですか、これは…」


 カールは、小さい女の子と領主という取り合わせに眉を寄せたが、ミーナを連れてくるようにと命じられて、その子が最近入った見習い騎士・オヅマの妹であることに気付いた。


 そう時を置かずしてカールに連れられてやって来たミーナは、ようやく見つかった娘にホッとしつつ、ヴァルナルに平身低頭して、何度も謝りながら執務室を出て行った。

 マリーは母に手をひかれながら、閉まっていく扉の向こうのヴァルナルにこっそり手を振る。

 すぐに気づいたヴァルナルも手を振ってくれた。


 マリーの心にヴァルナルの優しい笑顔が残った。





 その後にマリーは母からも兄からもこってり絞られたが、そんなに気持ちが沈むことはなかった。


「ご迷惑ですから、もう二度とあんなところにまで行ってはいけませんよ」


と、母からはきつく言われたものの、マリーはあの時のヴァルナルの笑顔を知っている。あれは迷惑と思っている顔に見えなかった。それに、あのとき貰ったロンタの実のお礼もまだしていない。


 翌日。

 マリーはヴァルナルへのお礼を思いついた。


 自分のコップを持ち出し、パウル爺のところに行って、コップに飾れそうな花をいくつか摘ませてもらう。今度は迷子にならないようにパウル爺に付き添ってもらって、前にも来た執務室にやって来た。


 コツンコツンとノックすると、カールがパウル爺を怪訝に見た後に、その隣にいるマリーを見て首を傾げた。

 小さな花の入ったコップを持っている。


「何か用か?」


 カールが尋ねると、パウル爺が軽く頷いてマリーに目をやる。

 カールが視線を下げると、丸い鮮やかな緑の瞳が真っ直ぐに見上げてきた。


「領主様にお礼を持ってきました!」

「お礼?」


 カールが聞き返すと同時に、扉の向こうからヴァルナルの朗らかな声が響いた。


「入ってもらえ、カール」


 カールは扉を開けて、マリーを中へと促す。

 マリーは胸を張って、堂々と執務室に入ると、大きな執務机の向こうに座るヴァルナルにペコリと頭を下げた。


「やぁ、マリー。今日はもうロンタの実はいいのかな?」

「はい、大丈夫です。今日は、お礼に来ました!」

「ほぅ?」


 ヴァルナルが小首を傾げると、マリーは白やピンクの小菊を集めたコップを差し出した。

 しげしげとそのこじんまりした花の贈り物を見つめてから、ヴァルナルはクスリと笑って受け取った。


「ありがとう、マリー。わざわざ気を遣ってもらって、すまないね」


 マリーはヴァルナルの笑顔が見れたので、もうそれだけで十分だった。

 満面の笑みを浮かべてピョコンとまたお辞儀をして出て行こうとすると、ヴァルナルが呼びかけてくる。


「マリー、ところでこのコップは君のかい?」

「はい!」

「花を活けるのに使ってしまって、君のコップがないと困るんじゃないのか?」

「いいえ。もう一つあります。それは少し小さくて、もう使わないから」

「そうか。殺風景な部屋が明るくなったよ。ありがとう」

「はい!」


 まさしくそれこそマリーの狙い通りだった。

 このことを思いついたのは、マリーがこの執務室の重苦しい雰囲気を思い出したからだった。花でも飾れば、もうちょっとヴァルナルの笑顔と同じやわらかい空気になるような気がしたのだ。


「花が枯れたら、また新しいのを持ってきてくれるかい?」


 ヴァルナルの言葉に、マリーは喜んだ。

 自分にしかできない新たな仕事を、領主様直々にもらうことができた。これは母にも兄にも自慢していいだろう。


 数日後、菊がしおれてきた頃合いで、マリーは新たな花を摘んで飾っておいた。


 しかし、この数日、領主の執務机に見慣れぬこじんまりした花が飾ってあることを不審に思っていた掃除番の下女・ドーリは、花が変わったのを見るとさすがに執事のネストリに報告した。


「花を飾るなど……あの領主様が?」


 ネストリも最初は信じられなかったが、実際にヴァルナルの執務室に行ってみると、みすぼらしいコップに貧相な花が活けられている。

 ネストリは眉を寄せると、ドーリに命じた。


「理由はわからぬが、領主様が花を飾りたいのであれば、こんなきたならしいものはみっともない。早々に片付けて、花瓶にそれらしい花を活けておけ」


 ドーリは忠実に働いた。

 アントンソン夫人にネストリからの命令を伝え、夫人が花を白磁の花瓶に活けた後、それを執務机の端に置いた。

 それからコップを厨房へと持っていく。


「ねぇ? これって、ここの?」


 母と一緒に厨房で豆の皮剥きをしていたマリーは、そのコップを持ったドーリに驚いた。


「それ……どうしてそのコップ持ってるの?」

「え? なに、これアンタの?」


 言いながら、ドーリはコップに飾ってあった花を無造作に掴んで、ゴミ捨ての籠に投げ捨てる。


「あっ」


 マリーは声を上げたが、ドーリは気にも留めずにコップをテーブルに置いた。


「なんだか知らないけど、このコップに花が飾られて執務室に置いてあったの。みすぼらしいから、ちゃんとした花瓶に花を活けておけってさ。そのコップ、ここだったら何かに使えるでしょ?」


 言うだけ言ってドーリは去っていった。

 マリーは呆然となった。



 ―――― あんなに喜んでくれたのに……みすぼらしいなんて…… 



 ポロポロと涙が溢れてくる。


 ミーナは泣き出したマリーを、そっと抱きしめた。

 マリーが領主様直々に執務室に花を飾ることを頼まれたと、自慢げに言っていたのは数日前のことだ。

 だが、その時からミーナはいずれこんなふうになるのではないか……と危惧していた。

 おそらく領主は、小さなマリーに気を遣ってくれただけなのだろう……と。


 ただ……



 ―――― こんなに早く、こんなにあからさまにすることないじゃないの!



 ミーナは傷心の娘の頭をなでながら、少しばかりヴァルナルを恨みに思った。



【後編につづく】

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