第百八十九話 渓谷にて(6)

 オヅマは川辺に咲く群青色の花をチラとだけ見た。

 一株に一つしか咲かない、大人の手ほどもある大きな花で、形は百合に似ている。肉厚のつややかな群青色の花弁。中心部にいくほど白く、金色の花粉が風に揺れるたび、花びらにまぶされたように点々と散って、まだらの模様をつくる。


 確かに美しい花だった。しかも、そうそう見かける花ではない。

 オヅマも村近くに群生していた数株を見ただけだ。それらは薬師の婆によって焼却された後、抜かれた。

 そのとき婆に言われたことを、女の子に話す。


「死んだりはしないけど、触ったら全身に鱗みたいなイボが出来て、熱が出るんだよ。下手すりゃ目にまで膜が張ったみたいになって、見えにくくなったりな。しばらくは痛いし、治るまで十日ほどかかる。潰したり、妙な薬で無理矢理治そうとしたら、痘痕あばたになったり、肌が青黒くなって残るんだ。とにかく十日間は我慢して放っておきゃ治るが……触らねぇのが一番いいだろ」

「………毒草なのね」

「あぁ。聞いたことないか? 青鱗草セイリンソウとか、青鱗蘭セイリンランとか。別名で『龍の好物』とか、あと『離ればなれの花』ってのもあったな」

「………知らない」


 女の子は暗い声でつぶやいた後、しばらく黙り込んでいた。それでも気になることがあるのか、尋ねてくる。 


「ねぇ、あの花ってこの辺りでは有名なの?」

「珍しい花ではあるけど、危ない花だから地元の人間は知ってるだろ。花が咲かない間は気付かないんだよな。葉っぱだけだから。葉のときは毒がないし」


 この花の不思議なのは、花が咲いている間は葉が落ちてしまい、花が枯れると葉が復活する。つまり花と葉が両方あることはないのだ。別名『離ればなれの花』の由来である。

 葉の状態のときには毒性はなく、茎や葉を触っても問題ないが、花を咲かせている間のみ、毒が生成されるらしい。葉のときと花のときで茎の状態も違っていて、花のときには茎に細かな粒状の突起物ができるのだという。毒はその突起物を破ることで肌に湿潤していくのではないか……というのが、薬師の婆の見立てだった。


 長く伸びた茎の先にある花は、重たげで折れそうで、いかにも取ってくださいと言わんばかり。女の子が手を伸ばしたのもわからないではない。

 村にいた頃にも近所の子供チビがうっかり取ってしまって発症し、その後に薬師の婆の処置で良くなったが、それでも右肩から顎にかけて、痘痕が残ってしまった。


 オヅマはそのときにマリーに注意したことを、女の子にも言って聞かせた。


「綺麗に見えるけど、よく知りもしない草やら花やらを簡単にとろうとするな。山の花は動物に食べられないように、苦かったりして毒があるのが多いんだよ」

「別にわたくしが欲しかったわけではないわ」

「は? 誰かに頼まれたのか?」


 オヅマは何気なく聞いたが、女の子は「うるさい」とつぶやいて押し黙った。

 誰に頼まれたのか知らないが、危ないことだ。


「そいつに言っておけよ。あれは毒花で危ないからって」

「…………」


 女の子は答えなかった。どうやら毒花を取ってこいと言われたのが相当こたえたらしい。

 言ったのが誰だか知らないが、大人だとすれば、よほどのマヌケか馬鹿でない限り十中八九ワザとだろう。

 オヅマはなんだかザワザワと落ち着かない気分になった。こんな小さい子供に、なんでそんな恐ろしいことをする……? 


 橋を渡ったところで、らしい騎士達が走り寄ってきた。


「お嬢様!」


 一番早くに来た金髪の騎士が手を伸ばしてきたが、女の子はなぜかオヅマの肩をしっかり掴み、離れようとしなかった。


「オイ、家来だろ?」


 オヅマが尋ねると、女の子は小さい声でボソリと言った。


「この人は嫌。そっちの……赤毛の男にして」


 なんだそれは……と、オヅマは怪訝に思ったが、女の子の声が妙に暗く沈んで聞こえて、言われた通りに斜め前に立っていた赤毛の騎士に背を向けた。赤毛の騎士はすぐに女の子を抱き上げる。


「ありがとう、少年」


 太い眉を下げて、赤毛の騎士が礼を言う。金髪の騎士の方は、ムッと怒った様子だった。オヅマがわざと自分を邪険にしたと思ったらしい。女の子の声は聞こえなかったのだろうか? しっかりと訓練された騎士であれば、あれくらいの囁き声でも判別できそうなものだが。

 オヅマは気にしないことにした。どうせこの場限りのことだ。


「足をくじいたみたいです」


 一言だけ報告すると、オヅマはチラリと女の子を見た。

 さっきまでの高慢で尊大な態度はどこへやら……騎士の腕の中でおとなしくしている。

 オヅマの視線に気付くと、ジロリと睨んできた。さっきは美しい瞳にばかり目がいって気付かなかったが、右目の下にホクロが二つ並んでいる。


 カサリ、と何かの記憶が動く音がした。

 しかし、結局思い出せない。


 オヅマは軽く頭を下げ、踵を返して駆け出した。

 橋を渡ってから、一旦止まって呼吸を整え、ゆっくり歩き出す。だがすぐに背後から呼び止められた。


「おい! 待て小僧!」


 振り返ると、さっきの金色の髪の騎士が、小袋を持ってこちらに走り寄ってくる。オヅマは眉を寄せた。薄く歪んだ唇と青の瞳にはあからさまな軽蔑。女の子がもう一人の赤毛の騎士を指名した理由がなんとなくわかった。少なくともあちらの方が人は良さそうだ。


「なんですか?」


 オヅマが尋ねると、金髪の騎士は小袋をオヅマの目の前に突き出した。


「お嬢様からの心付けだ」


 オヅマはムッと騎士を睨みつけた。


「いらねぇよ」

「やせ我慢をせずともよいから、とっとと受け取れ」


 騎士は、はなからオヅマが小遣い欲しさに、女の子を助けたと決めつけている。


「いらねぇっってんだろ! そっちこそとっとと帰れ!!」


 オヅマは怒鳴りつけると、騎士が何か言い返す前に走り去った。


 誰がやせ我慢だ! 人を馬鹿にして。


 走りながら、水辺近くに咲く青鱗草せいりんそうをチラリと見やった。群青色の花弁は美しかったが、その毒性を知っていると、ひどく不気味に思える。あとで焼却処分するようにヴァルナルに言っておかねば。


 オヅマは女の子の顔を思い浮かべた。

 光を反射してキラキラと輝く宝石のような瞳。気の強そうな ―― 実際、小生意気な ―― 引き結ばれた口元。ほんのりと紅潮した薔薇色の頬にかかった、けぶるような銀の髪。

 あの高慢な口さえ閉ざしておけば、可憐なる美少女には違いない。もし、あの花を触ってあの美しい顔がイボだらけになるかと思ったら、他人事ながらちょっとゾッとする。


 色々と文句はあったが、まぁ、触らせなくて良かった……と、オヅマは自分を納得させて、女の子のことは忘れることにした。





 エルムの木へと向かう途中で、探しに来たオリヴェルとマリーに遭遇した。


「あぁ…良かった」


 オヅマの姿を見つけるなり、安堵して駆け寄ってきたオリヴェルは、少し顔色が悪い。


「おい、無理すんな」

「大丈夫だよ」

「どこが大丈夫だよ。ったく、こんな山の中腹で走ったりするから……」


 オヅマが怒ったように言うと、マリーがすぐに抗議する。


「なによう。お兄ちゃんがいきなりいなくなるのがいけないんじゃない!」

「ちょっと川の方に行ってただけだろ」

「川? 川になんかあった?」

「クッソ生意気な銀狐が一匹……」


 オヅマは言いかけて口を噤んだ。

 脳裡で青翠の瞳がオヅマをギロリと厳しく睨んでくる。

 マリーとオリヴェルは意味がわからず首をかしげたが、オヅマはぶんぶんと頭を振って、少女の残像を払った。


「もぅいいわ。行きましょ」


 マリーがオヅマの手をとる。すかさずオリヴェルに声をかけた。


「オリーはそっちの手を握って。お兄ちゃんをします!」

「連行?!」


 オヅマがびっくりしている間に、オリヴェルが笑みを浮かべて、マリーの指示に従った。「さ、みんなで帰るよ」


 三人で手を繋いで歩いて行く先、エルムの木の下でヴァルナルとミーナが立っていた。


「おとーさーんっ! お兄ちゃん、捕まえたーっ」


 マリーはオヅマの手を握るのと反対の手を大きく振った。

 もうすっかり当たり前のように、ヴァルナルに呼びかける。ヴァルナルも手を振って応えていた。ニコニコ笑った顔は心底嬉しそうだ。


「良かったね、マリー」


 オリヴェルが言うと、マリーは少しだけ恥ずかしそうに、それでも喜びが溢れた笑みを浮かべる。それからオヅマの手を離して、またヴァルナルの元へと走って行った。


「マリー、ずっと『お父さん』って呼びたかったんだって」


 オリヴェルは、ヴァルナルの腰に抱きつくマリーを見ながら言った。


「父上がミーナにプロポーズしたら、すぐに『お父さん』って言おうって……決めてたんだって」


 オヅマは楽しげに会話するヴァルナルとマリーを見つめた。もう父娘おやこにしか見えない。


「……お前もな」


 ややあって、オヅマは言った。「え?」と首を傾げたオリヴェルに目を向ける。


じゃなくてだろ。ま、無理する必要ないけど。言いたければ別に俺とかマリーに気兼ねすんなよ。マリーだって、母さんだって喜ぶさ」

「うん……そのうちね」


 オリヴェルは少しはにかみつつ、オヅマに問いかけた。


「オヅマは?」

「うん?」

「オヅマも、喜んでくれる?」


 オヅマはふっと笑った。


「母さんとマリーが喜んでるのに、俺が嫌がるわけないだろ」


 オリヴェルは微妙な面持ちになった。オヅマ自身の気持ちは、いつもマリーとミーナの後だ。ためらいながら、重ねて問うた。


「オヅマは? 父上のこと、呼ばないの?」

「…………そのうち」

 

 小さくつぶやいて、オヅマはゆっくりとなだらかな坂道を上っていく。



 初夏の花々が咲き乱れる渓谷に、家族の笑い声が響いていた。

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