第百八十八話 渓谷にて(5)

「ふぅ…」


 オヅマは渓谷を流れる小川の近くをフラフラと歩いていた。

 少しだけ、少しの間だけ、あの家族から離れたかった。今はまだ、あの中に入れない。

 さっき見た残滓ざんしが心を重くする。

 だがいつまでもそれに囚われていると、またあの暗闇が襲ってきそうで、オヅマは頭を振って無理やり嫌な気分を追い出した。


 すぅ、と息を吸い、マリーと母の笑顔を思い浮かべた。マリーとヴァルナルが作った花かんむりをのせた母は、本当に幸せそうで美しかった。

 よかった……と息をつく。

 もう、オヅマが心配しなくてもいい。ヴァルナルには母と妹を幸せにする力がある。決して裏切ることのない、誠実で穏やかな夫であり、やさしい父であることだろう。


 心底からの安堵感と同時に、気が抜けた。

 ぼんやりと小川のせせらぎを見つめる。一仕事終えたあとのような、疲れているがさっぱりした気分だ。


 オヅマはしばらく川べりに立って、見るともなしに川の流れを見ていたが、ふとこちらにやってくる人の気配に気付いて何気なく目をやった。


 女の子だ。小川に架けられた小さな橋を渡ってこちらに来る。

 オリヴェルと同じくらい ―― 十歳くらいだろうか。レースをふんだんにあしらったアイボリーのドレスに、小さな薔薇の造花をいくつも挿した、いかにも高価そうな帽子。一目で貴族のお嬢様だとわかる。観光にでも来たのかもしれない。

 いや、それよりも ―――


「おい、やめろ!」


 オヅマは走りながら鋭く叫んだ。

 しかしビクリと振り返った女の子の手は、今しもその先にある青い花に触れようとしている。


「触るな!」


 オヅマは近くまで来ると、すんでのところで女の子の手を払った。「キャッ」と小さな声があがる。

 払ったオヅマの手が女の子の被っていた帽子を飛ばし、山からの風に乗って川に落ちた。と同時に、藤色が入り混じった光沢のある銀の髪が風になびく。

 つややかに波打ち、キラキラとまばゆく光り散る髪。

 驚いてオヅマを見上げる丸く大きな瞳は、透明な青翠の虹彩が光を受けて様々な色に輝いている。まるで宝石のようだ。



 ―――― 妖精?



 オヅマは思わず、その浮世離れしたかのような少女に見入ってしまった。

 しかし ――――


「あぁーっ!」


 幻想的な雰囲気は一気にかき消された。

 女の子が大声で叫ぶ。

 オヅマは我に返ると、あわてて女の子の手を引っ張った。


「こっち来い!」

「なによっ、お前!」


 女の子がギロっとオヅマを睨みつける。


「いきなり怒鳴りつけるなんて、なんて野蛮なの!」


 いかにもご令嬢らしい言いようにオヅマは鼻白んだが、掴んだ手に力を込めて、無理にその場から連れ出した。


「ちょっとっ! 何をするの、無礼な!!」

「うるせぇ! その花に触れるな!! イボだらけになるぞ!」


 とりあえず危険な毒花から離れて、オヅマは女の子を叱りつけた。しかし女の子も負けていない。


「うるさいのはお前よ!」


 ブン、と腕を振って逃れると、ピシャリとオヅマに命令する。


「早く、わたくしの帽子を取りにおきなさい!!」

「はあぁ?」

「お前のせいで、帽子が川に落ちたのではないの! 早く取りに行って!!」


 オヅマはヒクヒクと頬を痙攣させた。さっきまでの穏やかで幸福な時間が嘘のようだ。


「なんだと、この……」


 怒鳴りつけそうになるのを我慢して、オヅマは女の子を見つめる。

 長い睫毛の下のくっきりした二重の目、柔らかな曲線を描く鼻筋、尖らせた小さな朱色の唇。ぽってりした頬は白く、興奮しているせいか、ほんのりと赤く色づいている。

 しかし黙ってさえいれば人形のような愛らしさを裏切るのは、女の子のきつい眼差しと、傲然ごうぜんたる態度だった。


「とっとと取りにお行き!」


 女の子は川を流れていく帽子を指さして命令する。水深が浅いせいなのか、石にぶつかっては止まりつつ、徐々に川を下っていっている。


「フザけんな! なんで俺が」

「あぁ! 馬鹿なの、お前? 理由はさっき言ったわ。お前の手がわたくしの帽子を払い落としたのよ。お前に原因があるのだから、お前が取りに行くのが当然でしょ。そうでなくとも、男であれば貴婦人レディの落とした物くらい、くどくど言わずに拾いに行きなさいよ。あぁ……また流され始めたわ。早く!」

「…………」


 女の子のあまりに高飛車な態度に、オヅマは怒りを通り越して呆気にとられた。チラと川を流れていく帽子を見る。

 いつまでたっても動かないオヅマを、女の子は怪訝に見つめてからハァと溜息をついた。


「あぁ……わかったわ。お前、水が怖いのね。もう結構よ」


 それからスタスタと歩き出す。

 勝手にカナヅチ扱いされ、オヅマはイラッとした。甚だ不本意ながら、走って女の子を追い抜く。すると女の子がムッとした顔になり、並んで駆け出した。


「おい、来るな!」

「もう結構と言ったでしょ!」

「うるせぇ、チビ!」

「誰に向かって、なんてことを言うの!」


 喧嘩しながら、裾長いドレスをたくし上げて走るのは難しかったのだろう。女の子が川べりの石につまづいてコケた。

 オヅマはチッと舌打ちしてから手を差し出したが、女の子はギロリと睨みつけて「先に帽子を取ってきて頂戴!」と、怒鳴りつけてくる。

 オヅマは拳を固く握りしめ、グッと我慢した。

 これは常日頃、礼儀作法を教えてくれているジーモン教授の「とにかく女性には丁寧に接するように!」という教えの賜物かもしれない。

 とはいえ、泣かないでいてくれるのは助かる。そのことだけは認めてやろう……とオヅマは気持ちを落ち着かせると、川の中に入って、小さな岩に引っ掛かっていた帽子を取り上げた。


「ほら」


 オヅマは地面に座り込んでいる女の子に帽子を差し出した。

 女の子はひったくるように取ると、軽く振って水を落としてから、澄ました顔でまだ濡れている帽子を被った。


「お前、馬鹿なの?」


 オヅマは目を丸くして尋ねた。それはさっき女の子に言われたお返しでもあったが、実際になんで濡れている帽子を被るのか、意味がわからない。

 しかし女の子はフンと鼻を鳴らした。


「うるさいわね、無礼者。男の前で結ってもいない無様な髪をさらすなんてこと出来るわけないでしょ」


 ツンとして言ってるそばから、女の子の頬に水が伝っていく。


「帽子を被ってるほうが無様に見えるけどな」

「お前、さっきから、わたくしが許してやっているけど、本当に失礼よ。謝ってもらうべきところだけど、帽子を取ってくれた褒美として許してやるわ。さ、早く立ち去りなさい。わたくしの家来が来れば、叱られるわよ」

「………それはどうも」


 オヅマはだんだん相手するのも疲れてきて、喉まで出かかっていた文句を押し込めた。

 何を言っても、この小生意気なチビ女にはかなわない気がする。

 そのまま立ち去ろうとして、振り返ると女の子はまだ座り込んでいた。


「おい。家来は来るんだろうな?」


 オヅマが呼びかけたが、女の子はこちらを見ることもない。

 肩をすくめてまた歩き出したが、後ろから小さなくしゃみが聞こえてきて、足を止める。

 オヅマはげんなりして深い溜息をつくと、仕方なく女の子のところに戻った。


「なによ?」


 女の子はスン、と洟水をすすって、相変わらずの澄ましっぷりだ。


「家来はいつ来るんだよ?」

「お前には関係ないことよ。放っておいて」

「足は? 痛いのか? ひねったか?」

「…………」


 女の子はソッポを向いて返事をしない。

 オヅマは軽く息をついて、足首をみようと手を伸ばしかける。しかし急に女の子の足が動いて蹴られそうになり、オヅマは咄嗟に避けた。


「あっ……ぶねぇな! このクソチビ!!」

「誰がチビだというのよ! 図体だけデカいウドの大木に言われたくないわ!!」

「さっきから、達者な口だな!」


 怒鳴りつけてから、オヅマは女の子の腕をグイと引っ張って立ち上がらせた。


「いぃッたぁーいッ!」


 女の子が悲鳴を上げる。


「そらみろ! 怪我してんじゃねぇか」

「だから何よ! しばらくすれば歩けるわ」

「あぁ、もう……本当に面倒くせぇチビだな」


 オヅマはぐしゃぐしゃと頭を掻いてから、女の子の前にしゃがみ込んだ。


「なによ……」

「グダグダ言ってないで背に乗れ。おんぶして家来とやらのとこに連れてってやるから」 

「へ、平気だと言って……」


 いいかげん素直でない女の子が鬱陶しくなってきて、オヅマは怪我しているらしい左足をビシリと打った。


「痛ッ!」


 よろけて女の子が背に倒れかかると、そのまま持ち上げる。軽く悲鳴を上げたものの、女の子はオヅマの背でようやく静かになった。


「どこだよ、家来は」

「………その先にある橋の向こうにいるわ」

「なんだってこんなとこまで来たんだよ」


 オヅマはブツクサ言いながら歩き出す。

 橋を渡る前に、女の子はさっき触ろうとしていた群青色の花を見つめてオヅマに問うてきた。


「あの花……って、触ってはいけないの?」

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