第百八十七話 渓谷にて(4)
昨夜はオリヴェルの準備に、今日は朝早くから昼食の準備に忙しかったためか、ミーナは寝不足だった。
既に夏の陽気ではあったが、エルムの木陰は涼しい風が通り、心地良さに睡魔がフワリと訪れる。太い幹に背を
「あ、すみません……少し眠くなってしまって」
あわてて体を起こして膝立ちになる。
顔を上げると、立ったままのヴァルナルがミーナを見下ろしている。
逆光のせいで表情は見えなかったが、手に持っているものにミーナは微笑んだ。
「花かんむりですね。すみません、あの子ったら領主様に自分のものを持たせて……」
フッと笑う気配がして、ヴァルナルがミーナの前にしゃがみこんだ。
「マリーの言う通りだな」
「え?」
「君の子供たちは、本当によく母親のことを見ている。君が彼らのことを心配して心をかける以上に、彼らは君のことを心配してるし、大好きなんだろう」
ミーナはいきなり言われて戸惑ったが、それでもニコリと笑った。
「えぇ、そうですね。二人とも、私のことを大事にしてくれます。時々、申し訳なくなるくらい」
「ミーナ。彼らはまだまだ子供だから見守る必要はあるだろうが、そろそろ君自身が幸せになることを考えても良さそうだよ」
「私は……」
ミーナはヴァルナルの優しい灰色の瞳を見つめて、愛しそうに微笑む。
「今、十分に幸せです。これ以上ないほどに」
「それは困るな」
ヴァルナルは残念そうに肩をすくめた。
「私と一緒になって、もっと幸せになってもらいたいんだよ」
ヴァルナルは言いながら、手に持っていた花かんむりをミーナの頭上にそっと載せた。
ミーナは驚きながら、急に恥ずかしくなって赤くなった。
「まぁ、こんな……花かんむりなんて。若い娘でもないのに……」
若い男女の間で交際を申し込む時に、花かんむりを女性に捧げるのはよくある風習だったが、ミーナはもはや自分がそんなことをされるとは思っていなかった。
「恥ずかしいです。私なんかがいい年して……」
「美しいよ、ミーナ。まさに、『ミーナ』の名前にふさわしい」
ヴァルナルの言う『ミーナ』とは、神話に出てくる妖精の始祖となった美少女の名前だ。彼女は今年の年神であるイファルエンケと、人間の女の間に生まれた双子の女の子の片割れだった。
神話では「飛び跳ねる足跡からは花が咲き、微笑めば花歌う」と形容される美貌の持ち主として描写されている。
ヴァルナルは右手を差し出して、ミーナに恭しく頭を下げた。
「ミーナ。あなたを妻に迎えたい。長く、共にいることを許していただけますか?」
「あ……」
ミーナはその時になって、ようやくマリーがヴァルナルを連れて行った理由がわかった。
自分を応援してくれる子供たちの気持ちが嬉しくて、薄紫の瞳に涙が浮かぶ。
「えぇ……もちろん」
本当はもっと言いたいことはあったが、ミーナが言葉にできたのはそれだけだった。嗚咽をのみこんで声にならなかったのもあるし、ヴァルナルの手に手を重ねた瞬間に引き寄せられてキスされたのもある。
「キャーッ」
マリーの黄色い歓声が谷間に響いた。
ヴァルナルのキスは一瞬だった。
ミーナを抱き寄せたまま一緒に立ち上がると、後ろを振り返り、背後で見ていた子供たちに向かって手を振った。
マリーが満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
ヴァルナルは軽々とマリーを抱き上げると、ニッコリと笑って礼を言った。
「ありがとう、マリー。お陰様で、成功したよ」
「おめでとう、領主様! よかったね!!」
マリーは嬉しくてたまらぬように言ってから、ヴァルナルに抱きついた。
「ねぇ、領主様。もう『お父さん』って言ってもいいの?」
思わぬ質問に、ヴァルナルは驚いて声が出なかった。
期待してキラキラと緑の瞳を輝かせるマリーに、泣きそうになりながら微笑みかける。
「もちろんだ! もちろんだよ、マリー!」
ミーナはマリーがくれたプレゼントと、ヴァルナルの目に少しだけ光った涙に、自分も目を潤ませる。
マリーはクフフと笑ってから、花かんむりを載せた母をうっとり見た。
「とっても綺麗、お母さん。本当に『ミーナ』みたい!」
ミーナは、はにかみつつ微笑んだ。
本来であれば花かんむりをもらえるような年齢ではない。はたから見れば、いい年をしてみっともないと言われるかもしれなかったが、それでも素直な娘の言葉が嬉しかった。
少し遅れてオリヴェルがやって来る。
恥ずかしそうに「おめでとう」と言って、マリーの指示で作った小さな
「ありがとうございます、若君」
ミーナの言葉にオリヴェルは少し沈んだ顔になる。マリーが目敏く気付いて、すぐ母に注意した。
「お母さん、ダメよ。若君じゃないでしょ!」
ミーナはハッとなってから、おずおずと言い直した。
「ありがとう……オリー」
ニッコリと笑って花束を受け取ると、ミーナはオリヴェルを抱きしめた。
オヅマは少し離れた場所からその様子を見ていた。
一歩、踏み出そうとしたが ――― 急に美しい花々の咲き乱れる景色は消え、暗黒に閉じ込められた。
―――― お前は不幸そのものだ!
憎しみだけを吐いたような言葉。
オヅマは固まった。
不意にブチリと何かに断ち切られて、自分の感覚を失う。
何も聞こえず、何も見えない。
自分以外の何かの感覚だけが、凍りついた意識に流れ込んでくる。
混沌の暗闇の中、目の前には鎧を着た男。
怒りに満ちた暗い瞳が、オヅマを睨みつけている。
―――― マリーはお前が殺したも同然だ。彼女はお前の狂気の犠牲になったのだ……
震える声は怒りが昂じてなのか、まだ癒えぬ悲しみを抱いているからなのか。
―――― お前は……この世に
銀色の閃きが迫ってきて、オヅマを斬った。
同時にゴォォと轟く音。
その音はゆっくりと遠ざかっていった。
「……………」
やがて閉じた瞼の向こうに光を感じ、オヅマはゆっくりと目を開いた。
そこは元の渓谷だった。
見渡すかぎり花が咲き、青く山々が連なる。
晴れた空に、雲が流れてゆく。
平和な景色の中でマリーが笑っていた。
母も、オリヴェルも、ヴァルナルも。
小さく美しい、絵に描いたかのように、幸せな家族。
自分にはそこに入る資格があるはずなのに、オヅマの足は動かなかった。
―――― こわい……。
自分があの中に入ったら、夢のようなあの家族が消えてしまう気がする……。
オヅマは二、三歩、後ろに歩いてから、クルリと踵を返して走り出した。
大事だから、そっとしておきたかった。
どうか、あの家族が永遠にありますように……。
切実な願いに胸が痛む。
自分でもこの痛みの理由がわからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます