第百八十五話 渓谷にて(2)

 数日前 ――――

 

「今度、みんなで西の渓谷に行くときなんですけど…その時に領主様の馬にオリヴェルが一緒に乗ることはできますか?」


 騎士団での訓練が終わった後に、久しぶりにオヅマの方から声をかけてきた。ヴァルナルは少し驚きつつも、その内容に首をひねった。


「オリヴェルを? 無論できるが……馬車の方がいいんじゃないのか?」


 ギョルムに襲われた後、しばらくは安静に過ごすように指示されたオリヴェルの体調は、もうすっかり良くなっていた。とはいえ、生来からの病弱な体質が治ったわけではない。無理は禁物だ。

 今回のピクニックにおいても、オリヴェルには馬車に乗ってもらうつもりだった。


 オヅマもそのことは十分に承知していたが、それでもヴァルナルに頼んだ。


「前からオリヴェルが言ってたんです。いつか馬に乗りたいって。叶うなら、黒角馬くろつのうまに乗ってみたいって。でも騎士にとって馬は大事なものだから、無理だろうって諦めてたんだけど……」


 オヅマは一旦言葉を切ってから、じっとヴァルナルを見つめた。


「オリヴェルの望みを叶えてもらえませんか?」


 緊張した固い表情だったが、必死さがにじみ出ていた。

 ヴァルナルは気持ちが熱くなって、泣きそうになった。


 血の繋がりのないオリヴェルのことも、マリー同様に、オヅマは兄として気にかけてくれている。ヴァルナルが家族になろうとする前から、三人は既にきょうだい同然なのだ。


 ヴァルナルは、あの時オヅマを ―― 一年半前に門番のジョスと押し問答していた無鉄砲な少年を ―― 追い返さなくてよかった……と心底思った。

 もしオヅマ達親子が領主館に来ることがなかったら、きっとオリヴェルは元気になることもなく、自分もまた罪の意識から息子を遠ざけたままだったろう。

 こんな些細な願いを知ることもないままに………。


「わかった。道中ずっとはさすがに難しいが、途中から乗せることぐらいは大丈夫だろう。一応、ビョルネ医師の了承を得ねばならないが、オリヴェルの体調さえ良ければ問題なかろう」


 ヴァルナルが承諾すると、オヅマの顔はパッと明るくなった。


「ありがとうございます!」

「いや、むしろ礼を言うのは私の方だ。父だというのに、息子のそんな些細な望みさえも知らなかった。ありがとう、オヅマ」





 そのときの会話を思いながら、ヴァルナルはもう一度言った。


「……お前のお陰でオリヴェルの望みを叶えてやれた。ありがとう、オヅマ」


 不意に礼を言われて振り返ったオヅマは、繰り返されるお礼の言葉に目を丸くした。

 自分は特に何かしたつもりはなかった。ただ、オリヴェルが前から言っていた希望を伝えただけだ。


「俺は……別に……」


 目をそらし、スタスタと歩いていく。

 また気まずい沈黙が漂いかけると、ヴァルナルが声をかけてきた。


「オヅマ……すまないな」


 今度は謝られ、オヅマは怪訝に振り返った。


「なにがですか?」

「まだお前には認めてもらえないだろうとわかっているのに、私はミーナと結婚することを決めた。お前の気持ちを無視することになって……申し訳ないと思っている」

「………無視なんて、してない」


 ボソリと反論するオヅマに、ヴァルナルは聞き返した。


「そうか?」

「今、話してくれているじゃないですか」

「それはそうだが……」


 それ以上、ヴァルナルが話そうとするのを遮って、マリーの大声が響く。


「なにしてるのぉ? はやくーっ! お腹ペコペコだよーっ」


 その辺りで一本だけ高く伸びたエルムの木の下で、ぶんぶんと両手を振っていた。


「おう! 今行く!」


 オヅマは逃げるように駆け出した。

 優しくて、寛大なヴァルナル。であればこそ厄介だった。どうしても父として受け入れられない。

 どんなに尊敬し、信頼をしていても、それだけは叶えてやれないのだ。


 ヴァルナルは溜息をついて、軽く頭を振った。

 まだまだ先は長いな……と、小さくなっていくオヅマの背を見送る。

 ふぅ、と溜息をついて、ヴァルナルは花々の咲くなだらかな道をゆっくりと上っていった。





「ちょうどいい場所があったな」


 バサリと敷布を広げてから、ヴァルナルは初夏の日差しを遮って涼しい影を落とすエルムを見上げた。花の時期が終わって、新緑の美しい頃合いだった。


「はい。ここでしたら、影になって涼しいですし、見晴らしもいいですし」


 ミーナが木漏れ日に眩しげに目を細めて言う。

 柔らかな表情を浮かべ、優しく微笑むミーナ。見惚れそうになって、ヴァルナルはごまかすように目を周囲へと向けた。


「あぁ……」


 なだらかな傾斜に色とりどりの花が咲き乱れている。

 美しい景色だ。この土地の人間には『女神サラ=ティナの秘密の花園』と呼ばれているらしい。


「……うん、そうだな」


 そう言ってまた視線を戻せば、そこにはこの景色の中でひときわ美しい花のようなひとが座っている。

 こんな日はそうそう人生にないだろう。……


「ねー、早く食べよお」


 マリーはすでにバスケットを目の前に置いて、いつでも開ける準備をしていた。


「父上も、オヅマも座って」


 オリヴェルは空いている場所をポンポンと叩いて招く。

 ヴァルナルはミーナと向かいあうように座り、オヅマはやや逡巡しつつもそこしか空いていないのでヴァルナルの隣に座った。


「そぉーれっ!」


 マリーが待ちかねたとばかりにバスケットを開く。

 中には硬めに焼いたライ麦パン、ハム、チーズ、ゆで卵、ヴァルナルの好物というシロルの酢漬け、ニンジンとタマネギをソテーしたもの、キャベツのピクルスなどの昼食の材料となるものの他に、スコーンとジャムも入っていた。


 パンにバターを塗って、自分の好きなようにハムやらスライスしたゆで卵なりを乗せて食べる。

 ヴァルナルはミーナが用意してくれた豪華なトッピング ―― ハムとゆで卵、ニンジンとタマネギのソテーの上にシロルの酢漬け ―― を受け取って、その掌ほどの大きさのパンを一口でパクリと食べる。咀嚼して飲み込むと、しばらく無言だった。


「……どうされました? おいしくありませんか?」


 ミーナは自分の作ったものが何か悪かったかと心配そうに声をかけたが、ヴァルナルは真面目な顔で言った。


「……うまい」


 ミーナはしばしヴァルナルを見てから、ニッコリ微笑んだ。

 マリーは二人の姿を見て、クフフと笑う。


「仲良いねー」

「本当だね」


 オリヴェルはマリーに同意して、ハムとチーズとキャベツのピクルスを乗せたパンを食べる。しばらく無言で味わった後、「……おいしい」とヴァルナルと同じ顔でつぶやくので、マリーがケタケタと笑った。

 オヅマもいざ食事となると、旺盛な食欲に素直に支配される。

 しばし子供たちは静かに食べることに集中した。

 ヴァルナルはミーナの用意してくれた二つのパンを食べた後に、コホと軽く咳払いして、おもむろに口を開いた。


「その……君たちに話がある」


 マリーはジャムを塗ったスコーンを頬張ったまま、ヴァルナルに目を向ける。

 オヅマはおおむね何を言い出すのかわかっていたので、わざとに顔をそむけ、オリヴェルはそんなオヅマとヴァルナルを交互に見つめて困惑した。


 ヴァルナルはすぅ、と息を吸って、いざ言おうとしたが ―――


「ダメーーーッ」


 幼い甲高い声が響いた。

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