第百八十四話 渓谷にて(1)

 サフェナ=レーゲンブルトの南西部にあるヒルヴァニス渓谷は、夏を迎えたこの時期、一年で最も美しい景色に彩られる。赤、紫、ピンク、白、青、黄色、橙……自生する様々な野の花が咲き乱れ、まるで天上の花園のごとき美しさだ。


 浄闇じょうあんの月を迎えて、帝都などではすっかり夏も本番となり、うだる暑さに人々もげんなりする時候であった。しかし北国においては朝方などは寒いほどで、昼でも山の近くでは涼しい風が吹く。


 天蓋のない簡素な馬車の上で、マリーは歓声を上げた。


「すごい! すごいわ!! 谷の奥までお花畑が続いてる!」


 馬車の隣で黒角馬くろつのうまのシェンスにまたがっていたヴァルナルはニコリと笑みを浮かべた。手綱を握る腕の間にはオリヴェルがいる。シェンスのたてがみをつかみながら、オリヴェルも感嘆の声をあげた。


「すごい! こんなところがあったなんて……匂いにまで色がついてるみたいだ」


 感受性豊かな息子の表現に、ヴァルナルはほぉ……と感心してしまった。

 この時期にこの渓谷を訪れたのは初めてではなかったが、初めての時でもそのような感想は出てこなかった。ただ美しいと息を呑んで見つめていただけだ。


 テュコから聞いた帝都への新たな街道のことで、ヴァルナルは南西部のダーゼ公爵領に隣接したロージンサクリ連峰まで、一度調査も兼ねて訪れた。

 その時に、この渓谷を埋め尽くす花畑を見て、自然と思い浮かべたのはマリーの笑顔だった。


 花好きのマリーは、領主館にやって来た時から変わらず今も、庭師のパウル爺やイーヴァリの後をついて回っている。花の知識は、既にヴァルナルなどよりもずっと詳しいくらいだ。

 マリーをここに連れてきたらさぞかし喜ぶだろうな……と思った。

 帰ってきてそのことをミーナに話すと、ミーナは頷いてから少し思案顔になった。


「どうした?」


 ヴァルナルが尋ねると、ミーナは「いえ……」と首を振ったものの、重ねて問うたヴァルナルに遠慮がちに言った。


「昔、皆でピクニックに行きたいと話していたことがあるのです。あの頃はまだ若君のお体も弱くていらしたので、無理だろうと思っていたのですが、今であれば、きちんと準備していけば行けるような気もしたのですが……領主様がお忙しいのに、難しいですね」

「それくらいなことは、なんでもない」


 ヴァルナルは朗らかに賛同しながら、ミーナに注意した。


「但し、貴女あなたが私のことを『領主様』と呼ぶのは、そろそろ変えてもらいたいが」

「それは……」


 ミーナは困った。

 ヴァルナルとの仲について、領主館どころか領府内においてほぼ公然のことになっているとはいえ、それでも今はまだ、自分はヴァルナルの下僕の立場だ。


「今更、誰もが知っているのだから……そう堅苦しく考えるようなことでもなかろう」


 ヴァルナルはお見通しとばかりに、軽い口調でミーナの言い訳を封じてくる。ミーナは苦笑しつつ、それでも首を振った。


「まだ子供たちにはきちんと知らせておりません。せめてあの子たちに、これからのことも含めて話してからでないと……」

「ふむ。そうか。そういえば、そうだな」


 ヴァルナルは考え込んだ。

 ギョルムのことがあって、ミーナと互いの気持ちを確かめ合えたとはいえ、まだ子供たちにはちゃんと伝えていなかった。いよいよ家族となるのであれば、確かに一度、きちんと話しておく必要があるだろう。


 そう考えたときに、ヴァルナルは一気に緊張した。

 まさかこの期に及んで、子供たちから反対されたらどうすればいいのだろう?

 オリヴェルは賛成してくれている。

 オヅマは当人としては複雑なようだが、母であるミーナの意志は尊重すると言っていた。

 だが、マリーは?

 マリーが自分のことを嫌っているとは思えなかったが、それはあくまでもとしてのヴァルナルであって、として受け入れてくれるかどうかは未知数だ。


「………よし、行こう。ピクニックに」


 ヴァルナルは決めた。

 そこで子供たちにミーナと結婚し、家族となることを話すのだ。

 かしこまった場を設けるよりも、広々とした空の下でのんびりと話してやった方が、子供たちに緊張せずに聞いてもらえるだろう……と、ミーナに説明したものの、実際にはヴァルナルの方が緊張するので、花の力を借りた……というのが正直なところだ。


 作戦(?)が功を奏して、マリーは渓谷に広がる絶景に歓喜している。


「小道があるわ! ここからは歩いていきましょう!!」


 マリーは言うやいなや、飛び降りそうな勢いだった。

 馭者台ぎょしゃだいに座っていたオヅマはあわてて手綱を引いて馬車を止めた。


「落ち着けよ、マリー。花が逃げていくわけじゃなし」


 オヅマは興奮する妹にあきれて言ったが、マリーは既にステップからぴょんと飛び降りて、花畑を貫く一本道を歩き始めていた。


「あぁ! いい匂い!! 春の匂いもする! 夏の匂いもする!」

「待って、マリー!」


 オリヴェルが馬上から声をかけたが、マリーは目の前に広がる花の絨毯に夢中だった。


「降りるか?」


 ヴァルナルが尋ねると、オリヴェルはしばらく迷っていた。


「また、帰りにも乗せてやろう。疲れていないなら」


 ヴァルナルの言葉にオリヴェルはパッと顔を輝かせた。

 うん、と頷いたオリヴェルに微笑みかけると、ヴァルナルは先に降りてから息子をそっと下ろした。

 地面に足が着いた途端、オリヴェルは豆が弾けるような勢いでマリーの元へ駆けていく。


「走ってはいけません、若君!」


 オヅマの手を借りて降りたミーナは、あわてて後を追っていった。

 残ったオヅマは嘆息しながら、荷物を下ろす。

 ヴァルナルは、ついてきていたトーケルとゴアンに、シェンスと馬車を預けた。


「しばらく戻ったところに羊飼いの家があったろう? そこで休ませてもらうといい」


 言いながらトーケルに小袋を渡す。心付けだ。身分のある者が出先で困ったときに、その地域の住人に休憩を要求し、その見返りとして金品を渡すのは、よくある話だった。休憩を提供する方にとっても実入りのいい副収入となるので、断る家はほぼない。 


「ハッ! では、何かありましたら笛にてお呼びください」


 ゴアンとトーケルは騎士礼をすると、馬車と馬を連れて、来た道を戻っていった。彼らはヴァルナルについて何度かここを訪れているので、今更、見物したいとも思わなかった。まして領主の邪魔をするなどもってのほかだ。


 その場に残されたオヅマとヴァルナルは何となく目が合った。


「行こうか、オヅマ」


 ヴァルナルは声をかけて、オヅマの足元に置いてあったバスケットを手に取ろうとする。しかしその前にオヅマがバスケットを持ち上げた。

 一瞬、気まずい空気が流れたが、ヴァルナルはすぐに何もなかったかのように、話しかけた。


「重くないのか?」

「大丈夫です」


 オヅマは領主様に運ばせるわけにもいかないと思って、そこにあった荷物を全部持とうとしたが、ヴァルナルは敷布だけオヅマから取り上げた。


「これは私が持とう」

「あ……じゃ、お願いします」


 オヅマはおとなしく任せることにした。

 正直、バスケットともう一つの巾着袋だけでまぁまぁの重量があるので、そこに長細くて重い敷布を担いで歩くのは、バランスを取りにくい。ヴァルナルはすぐにわかったのだろう。

 

 二人並んで歩く。

 微妙な沈黙を消したのは、やはりヴァルナルだった。


「オヅマ、お前に礼を言わなければな」

「はい?」

「オリヴェルは喜んでいたよ。シェンスに乗せてやれてよかった。ありがとう」


 ヴァルナルが感謝したのは、このピクニックに行くことになった時、オヅマがある提案をしてきたからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る