第百七十六話 ケレナの悔恨(1)

「ミーナさん、ちょっとお話したいことがあるの。よろしいかしら?」


 ケレナがめずらしく深刻な顔でミーナに声をかけてきたのは、ギョルムの事件のあった翌々日のことだった。


 ミーナはベッドで休んでいるオリヴェルの顔色を窺った。

 事件後、ビョルネ医師から安静にしておくようにと指示され、今は勉強も休んでいる。穏やかな寝息をたてているオリヴェルを確認した後、窓辺の椅子でつくろい物をしていたナンヌに付き添いを頼んだ。


「すぐに戻るわ」

「大丈夫ですよ。マリーちゃんも今は寝てますし」


 ナンヌは笑って請け負ってくれる。マリーは午前中に草抜きで庭を動き回って疲れたのか、ソファでぐっすり眠っていた。


「ありがとう」


 ミーナは礼を言って、廊下で待つケレナに声をかけた。


「お待たせしました。少し、出ましょうか」


 そう言ったのは、自分の眠気を追い出したかったのと、ケレナの顔が暗かったので気分転換をさせたかったのもある。

 館から出て、ミーナとケレナは庭の噴水そばにある東屋あずまやへと向かった。

 日差しは暑くなってきたが、影になった場所では涼しい風が吹いている。

 最近ではケレナに午後の授業がないときに、しばしば二人で話すことがあり、この東屋はケレナのお気に入りの場所だった。

 いつもなら「風が気持ち良いわ!」と大きく伸びをして、いきいきと話し始めるケレナは、今日はすっかり落ち込んだ様子で背を曲げ、憂鬱な顔でうつむいている。


「どうなさったの? そんな暗い顔をして」


 ミーナは東屋の中でケレナと並んで座ると、ギュッと膝の上で手を握りしめて、ひどく思い詰めた様子のケレナに尋ねた。

 しかしケレナはしばらくやはり黙りこくっていた。


「なにか心配ごとでも?」


 ミーナが首をかしげ、重ねて問いかけると、ケレナは急に立ち上がるなり、ミーナに向かって深々と頭を下げた。


「ごめんなさい! ミーナさん」


 いきなり大声で謝られて、ミーナはきょとんとケレナを見上げた。

 ケレナはおそるおそる顔を上げ、ミーナと目が合うと、泣きそうに顔を歪めた。


「ごめんなさい、本当に…」


 そのままその場に崩折れてしまったケレナをなだめて、ミーナはとりあえず隣に座らせると事情を尋ねた。


「いったい、どうされたの? いきなりなぜ謝罪なんて…」


 ケレナは軽く首を振りながら、ミーナの差し出したハンカチで目頭を押さえた。


わたくしがあんまりにも考えなしだからですわ。本当は、昨日気づいた時に、すぐにでも謝りに来たかったのですけど、昨日はミーナさんが休まれているからと……ナンヌにも言われまして」

「あ、それは」


 一時的にであれ、我を忘れるほどに激昂したせいであるのか、ギョルムのことがあった日、ミーナは発熱してしまった。

 熱は夜には収まったのだが、ギョルムに殴られた頬の腫れがまだ引かず、眩暈めまいもしていたので、しばらく体を休めるように、とのビョルネ医師からの指示で安静にしていたのだ。


「ごめんなさい。少し体調を崩していて…」

「とんでもない! ミーナさんが謝ることなど、何一つありませんわ。があったのですから、体をいたわるのは当然のことです。もっと十分に休まれていてもいいくらいですのに…あぁ、今日また私がこうして煩わせてしまって…」


 ケレナの言葉に、ミーナの顔が少しだけ曇った。

 ギョルムのことについて、館では特に箝口令かんこうれいかれたわけではなかったが、誰もが大っぴらに話すことは控えた。

 だが、人の口に戸は立てられない。

 ミーナとしては、ギョルムと思われるのだけは避けたかったので、本調子ではないものの、今朝から仕事に戻ったのだ。

 それでも、まだかすかに赤く腫れた頬を見て、何人かは痛ましそうに、何人かは物見高く、両者ともに勝手に事件を想像しては噂しているようだった。


「大したことではなかったのですし、あまり大袈裟に考えないでください」


 大事おおごとにしてほしくなくて、ミーナはケレナの過度の同情をやんわり拒否した。

 しかしケレナは首を振った。


「いいえ。ミーナさん、私はあなたに謝る必要があるのです。あぁ、本当に。あの男、あの破廉恥極まりない不逞な男に、私はうっかりあなたのことを話してしまったのです!」

「………え?」


 意味がわからずポカンとなるミーナに、ケレナは堰を切ったように話し始めた。


「数日前、私、いつものように朝の散歩をしていましたの。あなたとまたお話できないかと思っていたのですけど、その日はちょっと寝坊してしまいまして。前夜に読み始めた本が……あぁ! 考えてみればあの本も不吉なものでしたわ。『罪人たちの朝』なんて! ついつい面白くて止まらなくて、寝る時間がすっかり遅くなってしまったんですの。それで、朝起きるのが遅れたせいで、残念ながらあなたにお会いすることはできませんでした。そのまま薔薇園の方にでも一人で行こうとしていたら、あの男がビョルネと話しているところに出くわしたんです」

「……ビョルネ先生と?」


 知った名前が出てきて、ミーナは聞き返す。

 ケレナは深く頷いてから、ハタと気づいたようにつけ加えた。


「あぁ、トーマスの方ですわよ。間違ってもロビン・ビョルネ医師せんせいではございません。あの双子、顔立ちはそっくりですけど、身なりや行動はまったく異なりますからね。間違えられては、ロビン医師が不憫というものですわ」

「あの、トーマス先生と…ギョルム卿は何を?」

「さぁ? 私が近付いて挨拶する前にトーマスの方は去っていってしまいましたから。あぁ、でも葉巻をもらっていたようですわ。こちらでは手に入りにくいので、融通してもらっていたのでしょう。それからあの不埒な男と話すことに……あぁ! 今、思い出しても忌々しいですわ! あの男の口車にのって、うかうかと……私ったら余計なことを」


 ケレナは自分の失態がよほどに悔しいのか、何度も苛立たしげな溜息をついた。

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