第百六十八話 はやく起きた朝

「わあっ、見て見て! チョウチョがさなぎからかえろうとしてる」


 マリーが小枝にいる蛹を見て声をあげた。

 茶色の硬そうな殻を破って、今しも蝶が出てこようとしている。

 オリヴェルはマリーの指差す方を見て、眉をひそめた。  


「これがチョウチョ? なんか、白くて透明だけど……?」


 正直、触るのもためらうくらい気味悪い。

 ミーナは水の入ったおけをいったん置いて、二人の子供達に近寄った。


「生まれたばかりだから、まだ完全じゃないんですよ。ゆっくりゆっくり色が差して、きれいな蝶になるんです。この大きさですし、きっとアゲハ蝶の一種でしょうね」


 オリヴェルは振り返ってミーナに尋ねた。


「ゆっくりって、どれくらい時間がかかるんだ?」

「さぁ…私の覚えでは一刻か二刻(*一~二時間)くらいだったでしょうか?」

「そんなにかかるんじゃ、飛ぶまで見ていられないな」


 オリヴェルが残念そうに言うと、マリーが口を尖らせる。


「なぁに、またお勉強?」

「勉強は朝食のあとだよ。マリーだって、このあと食べるでしょ?」

「でも、朝食をさっさと食べて見に来ればいいじゃない」

「それは……」


 オリヴェルは口ごもる。

 朝食後にはジーモン老教授の歴史の授業なので、予習しておきたいのだ。


「やっぱりお勉強じゃない」


 マリーはプイとそっぽを向いた。

 困った様子のオリヴェルにミーナはきっぱり言った。


「娘を甘やかさなくてよろしいです、若君。午後の授業のあとには毎日遊んでいただいているのですから、十分でございます。……マリー、わがまま言わないの」

「はぁい」


 マリーは不承不承に頷いてから、オリヴェルの袖を引っ張った。


「じゃあ、このコが殻から出てくるまでは見ておきましょう。小鳥が食べにきたら追い払わないと!」

「え……でも」

「よろしゅうございますよ、若君。ほこらにはいつでも行けますが、蛹から孵る蝶を見る機会はいつでもというわけにはいきませんから。せっかくですし、ゆっくりご覧なさいませ」


 そう言うと、ミーナはまた桶を持って祠堂しどうへの道を歩いて行く。

 背後ではオリヴェルが「あっ! もう、ちょっと色がついてる」と、蛹から孵っていく蝶を見て興奮した様子だった。


「すぐに戻りますから、あちこちに行かないでくださいましね!」


 ミーナが呼びかけると、「はーい」と二人一緒に返事がかえってくる。

 眩しい朝の光の中、仲良く蛹を見守る二人の姿にミーナは目を細めた。





 いつもミーナが早朝に行っている祠堂への礼拝のことを知り、オリヴェルが行きたいと言い出したのは昨日のことだった。


「領主館にそんな祠があるなんて知らなかった。僕もお参りに行きたい」


 オヅマの剣舞を見てから、ビョルネ医師に色々と各地の祭礼について教えてもらうこともあって、オリヴェルは年のわりに神殿や神事に興味がある。


「でも、特に何もないただの祠ですよ」


 ミーナはあまり期待してガッカリさせるのも嫌で、正直に言った。

 都にある祠堂や小神殿などと比べ、簡素で、これといった特色もない。

 ヘルカ婆が丁寧に手入れしてきたが、維持のための予算を割り当てられることもなく、嵐で煉瓦が部分的に崩れても、修復されることはなかった。

 ヘルカ婆に頼まれたパウル爺が、応急処置として古びた赤煉瓦を継ぎ当てしてくれただけだ。


「いいよ。見てみたいだけだから」

「私も一緒に行く!」


 そばで聞いていたマリーも言い出すと、ミーナにはもう止めようもない。

 いつもより早くオリヴェルとマリーを起こして、三人で祠堂に向かうことになった。

 早朝の清々すがすがしい風と、朝露の残る庭が、オリヴェルには新鮮だったのだろう。寝ぼけ眼が一気に目覚めたようだった。


「すごい。きれいな空だ……」


 藍から橙へとゆるやかに色が変わっていく空には、羊雲が遠くまで広がっていた。

 しばらく魅せられたように、オリヴェルはその場に立ち尽くしていた。

 マリーはそんなオリヴェルに、早朝にしか咲かないツユクサの花を見せたりしながら、朝の散歩を楽しんでいたが、その時に蝶の蛹を見つけたのだった。





 オリヴェルとマリーといったん別れ、ミーナは祠堂に向かった。

 ポプラの木の連なる道を抜けると、小さな黒い屋根の祠が見えてくる。

 祠の前まで来て、水のたっぷり入った重い桶をよいしょと置き、一息ついていると、不意に背後から呼びかけられた。


「随分と遅かったな、ミーナ」


 苛立ちを含んだ少し甲高い声は覚えがあった。

 振り返ると、充血した目で少し顔の赤らんだギョルムが立っている。

 ミーナは反射的にギョルムと距離をとった。

 少し酒臭い。酔っているのだろうか……?


 あの一件のあと、ギョルムは上司であるラナハン卿から注意をされたらしい。

 しばらくは大人しかったが、あつものが喉元を過ぎると性懲りもなく、再びミーナに声をかけてきた。

 その頃にはヴァルナルの威令によって、帝都からの研究員とその随行者達が勝手に領主館の使用人に命令すること、本館にみだりに立ち入ることを禁止していたので、直接には無理だったのだが、東塔で彼らを世話する女中などを通じて手紙を送ってきたのである。

 ミーナは当然ながら無視した。

 最初の一通だけ読んだが、自分勝手なギョルムの言い分に腹が立つのを通り越し、ゾッとなって、すぐに捨てた。

 その後の手紙についてはすべて読むこともなく、火にべた。


「ギョルム卿……どうしてここに?」


 ミーナは思わず尋ねた。

 以前のようにまた後をつけまわされていたのだろうか?


 だが、彼ら ―― 帝都からの研究班の人々 ―― は、本館への出入りは基本的に禁止されている。特にギョルムについては、ヴァルナルに一度、目をつけられているのもあって、使用人だけでなく館を巡回している騎士達からも厳しく監視されていたはずだ。

 ミーナがこのほこらに来るようになったのは、例の一件以降のことだから、彼がどうやって朝ここにミーナが来ることを知っていたのかが不思議だった。

 だが、特に隠していることでもないのだから、東塔ひがしとう付きの女中などから聞いたのかもしれない。


 ギョルムは驚くミーナを見て、傲然と胸を張り、目を細めた。

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