第八章

第百六十七話 罪深き好奇心

 ケレナはしょんぼりした。

 その日の朝の散歩は少しだけ寝坊して遅くなってしまった。眠る前に読み始めた本のせいで、ついつい夜更かししてしまったのだ。

 最近、朝の散歩のついでに、ほこらの拝礼に来るミーナとおしゃべりするのが日課のようになっていた。短い時間だが、ケレナは楽しみにしていた。

 しかし今日は行き違いになってしまったようだ。

 仕方ない。ミーナは使用人として、朝は何かと忙しい。

 ケレナは肩を落とし、祠からポプラ並木を通って、庭師が丹精こめた薔薇園に向かって歩き出した。

 たいがいの貴族の家に薔薇園はあるものだが、ここの薔薇は少しばかり古い品種のものが多く、匂いが素晴らしい。芳しい香りを吸い込むだけで、沈んだ気持ちも晴れるというものだ。

 しかし向かう道の先に人影が見えて、ケレナは足を止めた。


「……あら?」


 首をかしげた目線の先で、同僚のトーマス・ビョルネが誰かと話している。

 トーマスには双子の弟がいて、確かに彼らはそっくりであったが、服装と髪型で区別できた。

 医者である弟がいつもきちんと身なりを整えているのに対して、トーマスは平民達が着る腰までのチュニックシャツに、西方の民のような、たっぷりした幅広のズボンを履いていた。その上、長く伸ばした灰色の髪を括りもせずに垂らしているので、後ろ姿だけを見ると、まるでいかがわしい商売女のようであった。


「せめて腰のベルトをして、髪は束ねて括りなさい」


と、うるさ方のジーモン教授からは度々叱られているが、本人はまったく聞く耳がないらしく、お小言は右から左に流れていく。

 ケレナはトーマスが少し苦手であった。

 明らかに格上であるジーモン教授に対する態度も横柄であったし、服装と同じく言動も突飛で、あまり共感できない。

 それでも同じ教師として、挨拶くらいせねばならないだろう。そもそも一本道を塞ぐように立つ男達がいけないのだ。

 ケレナは興味半分、面倒さ半分で近寄っていった。

 ボソボソと話す声に混じって、やや甲高い男の声が切れ切れに聞こえてくる。


「………ありがたい! ………辺境で………が…手に入るとは………」


 ありがたい? 手に入る? 一体、なんのことだろう?

 ケレナはゆっくりと音をたてないように歩きつつ、耳をそばだてた。


「お役に立てたようでよかったですよ。では、ギョルム卿」


 トーマスはギョルム卿なる男の肩を軽く叩くと、ケレナに気づくことなく、立ち去ってしまった。



 ―――― あら、残念。なんだか密会みたいな雰囲気だったというのに、終わってしまったわ。



 ケレナはふぅと息をつくと、素知らぬ顔で残された男 ―― ギョルムの方へと歩いていった。


「あら? あなたは……」


 ケレナは近づくにつれ、ギョルムに見覚えがあることに気付いた。

 一方ギョルムはいきなり現れたケレナにびっくりした様子で、あわてて手に持っていた何かを背後に隠した。



 ―――― やけに気になるわね



 チラとだけ窺って、ケレナはギョルムに微笑みかけた。


「おはようございます。よい朝ですわね」


 ギョルム卿、と言いかけてケレナはすんでで止めた。もしうっかり言って、盗み聞きしていたと咎められでもしたら、なんだか面倒なことになりそうだ。

 ギョルムはヒクヒクと頬を引き攣らせて、ケレナを見つめた。随分と警戒しているようだ。

 ケレナはギョルムをざっと見た。

 皺だらけではあったが、白地に緑のラインの入った丈の長いベスト。それに腰のベルトにある金具には象牙色の小さな杖が吊り下がっている。帝都においては見慣れた官吏かんりの服装であった。「卿」とトーマスが呼んでいたことからも、おそらく行政官か何かであろう。

 それにしても目を引くのはペッタリと貼り付いたような頭だ。髪油のつけすぎでテカテカ光っているのが、かえっていやらしい印象だった。

 それでもケレナは礼儀を守った。

 笑みを浮かべて、ギョルムに問いかける。


「もしかして、あなたもミーナさんに会いにいらしたのかしら?」


 そう尋ねたのは、以前にこの男がミーナに親しげに話しかけていたのを思い出したからだった。自分との共通項としてミーナのことを持ち出しただけなのだが、ギョルムは驚いたように目を剥いたまま黙り込んだ。

 ケレナはギョルムの様子に、自分の勘違いだったのかと首をひねった。


「あら? 違いまして?」

「あ……いや」


 ギョルムはそらした視線を泳がせてから、上目遣いにケレナを見た。


「ミ……ミ、ミーナはここに来るのか?」

「ええ。今日はもう帰られたようですけれど、もうちょっと早い時間であれば、そこのポプラ並木の奥にある祠堂しどうに毎日、礼拝に来られますのよ。祠の掃除などもなさっていて、信心深いことですわ。ああした人だから、領主様の目に留まるような幸運を手に入れるのでしょう。私などは、気まぐれにしかお願いしないから、神様も匙を投げて……」

「そ、そ、そうか。毎朝、祠堂に……」


 ギョルムはケレナの話を遮って、ひとりブツブツつぶやく。

 ケレナは少しだけ後悔した。

 今更ではあるが、目の前の男のくたびれた姿が気になった。

 行政官にとって支給される官服は、権威付けのため、あるいは自らの所属を誇示するためのものだ。当然、その身だしなみには相当に気を使う。

 であるのに、この男のこの為体ていたらく。正直言って、見苦しい。

 眉をひそめたケレナの前で、ギョルムは考えに夢中になるあまり、うっかりさっき隠したものを落としてしまったようだ。

 クリーム地に赤茶の活字が印刷された円筒が、ころころとケレナの足元まで転がってきた。


「あら……」


 ケレナはすぐにその筒箱を拾い上げた。

 さっきからやけに隠すので、何なのだろうかと思っていたが、なんのことはない。帝都ではよく見かける葉巻の銘柄だった。

 おそらくこのレーゲンブルトでは手に入らなくて困っていたところに、トーマスが持っていたか、手に入れたかしたものを譲ってもらったのだろう。


「落とされましたよ」


 ケレナが差し出すと、ギョルムはかすめ取るように奪って、礼も言わずに立ち去った。

 しばし呆然とした後、ケレナは憤然となった。


「………なんなの、あれ!」


 ギョルムの失礼過ぎる態度に、ケレナは怒り心頭だったが ――――


 数日後、ケレナは自身の旺盛な好奇心を後悔することになる。

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