第百五十七話 ケレナの噂話(2)

「………」


 ミーナは聞きながら、心臓を冷たい剣で刺し抜かれた気分だった。

 ケレナは黙り込むミーナに頓着せずに話を続ける。


「そのせいか、前の奥方はリーディエ様と比べられて、とても冷たい扱いを受けたと聞いております。無論、それは片方の意見であって、私も領主様に実際に会ってみれば、噂は噂だと認識を改めましたけれどね」


 ひとしきり話してからケレナはもう一度、祠に向かって頭を下げた。


「……イファルエンケは漂泊の神でもありますものね。私のような根無し草には有難い神様ですわ。もっとも、ここにはもうしばらくいさせてくださいとお願いしましたけど」


 笑って言うケレナに、ミーナは微笑み返しながらも、心中には不穏な思いが渦を巻いていた。

 突如湧き出たドス黒い気持ちが、ミーナの顔に翳をつくる。


「ごめんなさいね、ミーナさんはとても真面目でいらっしゃるのに、こんな話をしてしまって。見たところ私と同じような年頃でいらっしゃるものだから、親しくなれるかと思って…実は前々から機会をうかがっていたんです。ご迷惑だったかしら?」


 ケレナは申し訳無さそうに言った。自分がミーナの機嫌を損ねたと感じたらしい。

 ミーナはあわてて強張った顔に、無理やり笑みをつくった。


「いえ、そんな私なんて。いちいち真面目に考えすぎてしまって、つまらなかったですね。申し訳ありません」

「いえいえ、そんな。でもせっかくこうして知り合えたのです。内容は違っても、若君のお世話するという立場は一緒なのですし、もしよろしければ友達となっていただきたいわ。本当は私、とてもおしゃべりなんです」


 ケレナはそう言って、手を差し出す。跪いていたミーナは、その手を掴んで立ち上がった。


「私などでよろしければ」

「そんな謙遜なさらないで、ミーナさん。あなたが時折歌っているターディ語は、今ではほとんど聞かなくなった希少言語なんですよ。文字を持たない、歌で語り継がれた民族の言語ですわ。私、興味深く聴かせてもらっていたんです」


 ケレナはいきいきとした好奇心を隠すこともなく、楽しげに言った。


「お恥ずかしいですわ。誰もいないと思って歌っていたのに」

「ふふふ。あなたの歌声に耳を傾けている方は、私以外にもいらっしゃると思いますわよ」


 ケレナはおしゃべりだという言葉に違わず、ミーナと一緒になって館に向かって歩いている間、ずっと話していた。


 前の職場での令嬢がすぐに仮病を使って授業をサボったりしていたことや、昔、住んでいたラーナヤ王国のこと、ここに来るまでに泊まった宿屋のひどい料理のことなど、様々な話を面白おかしくミーナに語った。


 当初は礼儀正しく控えめな態度を崩さなかったミーナも、ケレナの飾らない人柄と、辛辣ながらも率直で、ちょっとしたを含んだ話術に、いつの間にか声を出して笑っていた。


 ミーナはケレナの話に相槌をうちながら、ふと思った。


 そういえば、自分には同じ年頃の友達というのがいたためしがない。――――


 幼い時にとても慈しみ育ててくれた存在はいたが、自分と同じ年頃の子供と遊んだ記憶はなかった。

 その後の人生においても、力になってくれたのは年上の女性ばかりで、自分と同じ年頃の少女が、リボンを揺らしながら楽しげに笑って過ぎていくのを、オヅマを抱きながら見つめていたのを思い出す。

 彼女らを羨んだりしたことはない。

 ただ、自分とは別の世界にいるのだと思った。自分がその世界に加わることはないのだと……。


 感傷に浸る前にミーナはその思い出を振り払った。

 とめどなくおしゃべりするケレナを見つめる。

 当たり前に過ごしてきた日常の朝に、突如現れた同じ年頃の『友達』が、とても貴重な人のように思えた。


 ケレナは辻音楽家が壊れたアコーディオンで見事に演奏した話で一区切りした後、ハーッと長く息をついた。


「あぁ、久々ですわ。こんなに気楽におしゃべりできたのは。家庭教師って、ちょっと特殊でございましょう? 召使いというわけでもなし、かといって客人というわけでもなし。主や主の家族からは召使いに毛の生えたもの、みたいな扱いですし、使用人からすれば客人でもないくせして態度のでかい女だと陰口を叩かれることもあって、なかなか心許せる人間というのに巡り会えないんです」


「まぁ…大変ですのね」


「えぇ。ですから、今までは遠方にいる姉に手紙で愚痴を言うのが唯一のおしゃべりだったんですの。姉は病であまり外に出ることもできない身の上ですから、私からの便りが唯一、楽しみなんだと言って…」


 言いかけたケレナの目に、一瞬、涙が浮かんだ。ミーナが気付いて言う前に、ケレナはあわてて涙をぬぐって、ニコリと笑った。


「でも、長く書いていると腕が痛くなるし、指にはタコができてしまうし…何より、分厚くなってしまって切手代が馬鹿になりませんわ」


 肩をすくめてみせるケレナに、ミーナは笑った。涙が少し気にはなったが、ケレナが避けたい話題なのかもしれないと思って、あえて触れなかった。


 館に入ってからも、ケレナのおしゃべりはとどまるところを知らなかったが、本館の北棟へと続く廊下を歩いていると、いきなりケレナは真っ赤になって口を噤んでしまった。


「……どうされたの?」


 ミーナが尋ねると、正面からネストリがつかつかと早足で歩いてくるところだった。


「ミドヴォア先生、こちらにいらしたんですか」

「まぁ……ネストリさん」


 ケレナの声はさっきまでの賑やかなものと打って変わって、か細く小さくなった。

 ネストリはチラとだけミーナを見て、ケレナに尋ねた。


「こんな朝早くから何をされていたのです?」

「あ…散歩を。早くに目覚めまして。それで、途中でミーナさんに会って…ちょっとおしゃべりしていたんです」


 ネストリは眉を寄せると、ジロリとミーナを見た。


「お前はなぜ、朝から歩き回っているのだ?」

「私はヘルカさんが足を痛めてしまったので、代わりに祠堂の世話を…」

「あぁ、あれか」


 ネストリはフンと鼻を鳴らす。「ま、よかろう」


「あ、あの…声が大きかったかしら? ごめんなさいましね」


 ケレナが申し訳なさそうに言うと、ネストリは「あ…いや」と気まずそうな顔になり、ゴホンとわざとらしい咳払いをする。


「朝は忙しい時間ですから、職務に怠慢な者がいないかと思ったまでです。きちんと理由のある行動であるならば、私もむやみに咎めるつもりはございません」

「あ…ミーナさんは私のおしゃべりに付き合って下さっただけですのよ。ごめんなさいね、ミーナさん。断りづらかったのですわね」

「いえ、そんなことは」


 ミーナが言いかけるのを遮るように、ネストリは強い口調で言った。


「ミーナは息子の勉強をあなたに見てもらっているのですから、あなたに対して礼を尽くすのは当然のことです。そんな気遣いは無用です」

「そんな…私などは…ただの…家庭教師に過ぎませんから……」


 訥々と話すケレナの頬から首に朱が差す。

 ミーナはちょっと驚いた。もしかすると、ケレナは…? 


「では私は仕事がありますので、これで。ミーナ、そろそろ若君の起きられる時間だろう? いつまでもフラフラと歩き回っていないで、きちんとお世話するように」


 ネストリはビシリと言い置いて、足早に去っていった。 

 ケレナはその後姿をポーっと見つめている。


「……ネストリさんと仲がよろしいのですね」


 ミーナがそっと声をかけると、ケレナは真っ赤になりながらブンブン首を振った。


「いえっ! そ、そ、そういうわけではございませんのよ! ただ、この前ちょっと助けていただいて…」

「助けた? ネストリさんが?」


 あのネストリが誰かを助けるというのがミーナには信じられない。


「えぇ…その…図書室で調べ物をしている時に、ちょっと高い場所にある本が取れなくて…梯子を持ってきて取ろうとしていたら、私の立て掛けが悪かったのかよろけてしまって、その時に咄嗟に助けていただいたのですわ」

「まぁ…」


 ミーナは聞きながら、ネストリに対する認識を少しだけ改めた。

 さっきも含めて、ここに来た当初からミーナには終始一貫として冷たい人間ではあるが、他の人には情けある対応もできるようだ。


 下男のオッケが死んでからの手続きなども、パウル夫妻は自分達で埋葬の手配もせねばならぬと困っていたらしいが、ネストリがテキパキと指図してあっという間に埋葬し、簡易ながら葬儀も行ってくれたらしい。

「ちょっと見直したよ」とヘルカ婆も言っていた。


「それで好ましく思っていらっしゃるのね?」


 ミーナがにっこり笑って言うと、ケレナは「違います!」と懸命に否定したが、真っ赤になった顔は隠しようもない。


 素敵なことだ…とミーナは微笑ましく思いながらも、どこかで羨ましさが心を引っ掻いた。

 人を好きになるのは素晴らしいことなのに、どうして自分はいつも好きになってはいけない人ばかり、好きになってしまうのだろう……。

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