第百五十六話 ケレナの噂話(1)
ミーナは早朝に領主館敷地の南西の隅にある小さな祠に向かう。
そこは普段ほとんど人も来ないような場所で、長らくその管理は信心深いヘルカ婆が行っていた。
料理人としての職を娘のソニヤに譲った後も、領主館の一隅に住まわせてもらっているのだからと、ヘルカ婆は体があちこち痛んできた今もこの仕事を続けていた。しかしこの間、水の入った重い桶を運んでいたときに転んでしまい、足を捻挫してしまったらしい。
「じゃあ、私が代わりに行きます」
ミーナはすぐさまヘルカ婆の代わりを申し出た。
オリヴェルがヴァルナルと朝食を食べるようになってからは、ミーナがオリヴェルの朝食の準備をすることもなくなり、早朝は比較的ゆっくり過ごせるようになっていた。
ここに来て以来、何かと世話を焼いてくれるヘルカ婆への恩返しができるなら、何でもしたかった。
そんな訳でこの数日は、ミーナが祠の掃除などをしている。
「あら、ミーナさん」
ポプラの連なる小道を歩いていると、声をかけられた。振り返ると、オヅマの家庭教師でもあるケレナ・ミドヴォア女史が立っている。
「こんな朝早くから…偶然ですわね。あなたもお散歩かしら? 少し寒いけど、いい朝ですわね」
早口に話しかけてくるケレナにミーナは多少戸惑いつつも、すぐに桶を傍らに置くと、臍の上あたりで手を組み、頭を下げた。
「朝早くにお目にかかります」
ケレナは目をパチパチと瞬かせると、苦笑した。
「まぁ…そんな畏まった挨拶をされるような身ではありませんのに。私など、ただの家庭教師ですし」
「いえ。息子がいつもお世話になっておりますから。辛抱強く接して頂いて、恐縮しております」
「オホホホ」
ケレナは否定もできず、笑って誤魔化した。
実際に、オヅマはケレナの授業で船を漕いでいることが少なくない。珍しく起きていれば、魔方陣の落書きをしていたりする。
「私も今まで教えてきたのは女のお子さんばかりだったので、まだ試行錯誤しておりますの。彼らの興味ある教材を用意できればよろしいのですけど」
「先生も大変ですわね」
「えぇ、そうですわね…大人になって、先生なんて呼ばれていても勉強ですわ。むしろ子供より熱心に取り組まないと、あっという間に追い抜かされてしまいます。子供の持つ集中力というのは、いつも目を見張るものがありますから」
二人は話しながら祠の前にたどり着いた。
大きな
「まぁ、こんなところに
ケレナは驚いたように言って、まじまじと飾り気のない質素な祠を眺めた。
「毎朝、ミーナさんが世話されているの?」
「えぇ…ずっとヘルカさんが管理されていたんですけど、この間、足を痛めてしまって、私が代わりに」
話しながらミーナは祠から
フワリと、森の清しい香りに混じって微かな甘い匂いが漂う。
「あぁ…この香りを嗅ぐと、神殿にいる気分になりますわね」
ケレナがスゥと深く吸って胸をふくらませる。
ミーナは微笑した。
「神殿で使われる
「まぁ、珍しいですわね。神様をお祀りするのは帝都の庶民もしますけど、さすがに香木を毎日焚くなんてできませんわ。あっという間に破産してしまいます。その木は帝都にはないのかしら?」
「寒冷な場所でないと、育たないらしいですわ。庭師が言うには」
「あら、残念」
そこで一旦、会話は止まった。
ミーナは静かな表情で、祠の正面で腰を落として片膝立ちになると、ピンと指を伸ばした手を胸の前で交差し、瞑目して頭を下げた。正式な神前での拝礼式だが、庶民で知る者は少ない。貴族であっても、古典礼法をよほどに叩き込まれなければ、ここまで自然と身につくことはないだろう。
ケレナもまた、そうした拝礼があることを知らず、とりあえずミーナに
「この祠は何の神様を祀っているのかしら?」
ケレナはすぐに顔を上げると、まだ祈っていたミーナに尋ねた。
ミーナは目を閉じたまま、やさしく答える。
「特に決まってなくて、年神様をお祀りしているようですよ」
「あら。じゃあ今年はイファルエンケだから……恋人達の神ですわね。だからかしら? ミーナさんが熱心にお願いしているのは」
「え?」
ミーナは目を開いた。
振り返って目が合うと、ホホホとケレナは笑った。
「聞いておりますわ。ミーナさんがご領主様と随分とご昵近だと。この屋敷の人達はみな、優しいですわね。普通、主と自分の同輩の召使いがそんな仲になろうものなら、嫉妬してひどく当たる者も珍しくないのに」
ミーナは困惑しつつ、首を振った。
「そんなことはありません。先生の仰る通り、私は一介の召使いなのですから、領主様と昵懇だなんて…畏れ多いことです」
固い口調で返すミーナに、思っていた反応と違ったのか、ケレナは狼狽して言い繕った。
「あら、そんな……困ったわ。私、皮肉を言ったわけじゃございませんのよ。気を悪くされたのかしら? ごめんなさい」
「いえ、違います。本当に…本当に、私はそんなことは考えてもいませんので」
「あら……そうなんですか」
ケレナはやや残念そうに言ってから、ふっと表情が翳った。
「まぁ、結婚すれば男は変わると申しますものね。ご領主様も以前の奥様とは上手くいかなかったようですし…」
ドクン、とミーナの心臓が強く跳ねた。
それまでにも何度となくヴァルナルの前妻の話は聞いていたが、たいがいが「田舎を嫌って出た薄情者」というものだった。話す者達のほとんどがレーゲンブルトに長年住み暮らしている者達なのだから、致し方もない。
しかしケレナは公爵家からの紹介で来ている。
点々と各地の貴族の家を渡り歩く中で、ヴァルナル・クランツ男爵の様々な風聞を聞いたのかもしれない。
「以前の奥様は…ここが嫌になって出ていかれたと聞いておりますが」
ミーナがか細い声で言うと、ケレナは軽く溜息をついてゆるゆると首を振った。
「確かに田舎暮らしを嫌う女の方もいらっしゃるでしょうが、それでも夫がそれなりに気を遣っていれば、逃げるように出ていかれるようなことはないと思いますわ。まして幼い息子をおいて。私が聞いたのは、クランツ男爵が奥方を他の女性とくらべては非難していたと…」
「他の女性?」
「ミーナさんはご存知かしら? グレヴィリウス公爵の亡くなられた奥様のこと。リーディエ様と仰るのですけれど、美しくて、その上、とても賢い夫人でいらしたようですの。領主様は公爵閣下にお仕えすると同時に、リーディエ様にも相当に傾倒されていた……あるいは」
ケレナはコソリと小さな声で囁いた。
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます