第百四十六話 ジーモン老教授
「はい?」
オリヴェルが思わず聞き返すと、ジーモン老教授は簡素なグレーの装丁の本を二冊、鞄から取り出し、オヅマとオリヴェルそれぞれの前に差し出した。
「当面の教科書はこちらになります」
オヅマはその本の題名を読んで首をかしげた。
『
「翠ノ戦役って、領主様が出ていたやつじゃないのか?」
オヅマに言われて、オリヴェルは頭の中で今まで習った戦争の歴史について考えてみる。
南部は紛争地帯なので、歴史上何度か戦場となっているのだが、翠ノ戦役と通常呼ばれるものは、ついこの間まで行われていた戦争のことだろう。終結したのは六年ほど前だ。
オヅマの言う通り、この
「うん。父上は、この戦いで戦功をたてて領主になったんだって聞いた」
オリヴェルが頷いて言うと、ジーモン教授はゆっくりと首を振った。
「間違いではないですが、正確ではございませんな」
「違うの?」
「翠ノ戦役は
大きくは二つの期間に分かれます。
その後、二年の休戦の後に
「へぇ…なんでだろ? 今度聞いてみようかな?」
オヅマが何気なく言うと、ジーモン教授は初めて表情らしい表情 ―― キッと鋭くオヅマを見据えた。
「そう! それこそが重要です」
「へ?」
「今、この時。いずれ歴史の中の人物となるであろう者に直接事由を聞くことができる……この時代こそが重要なのです。時の過ぎゆくは早く、人はあっという間に歴史に埋もれる。この時代に起きたことは、この時代に生きる人々が刻んだ歴史なのです。今であれば、歴史に埋もれそうな事柄であっても、当人に訊くことが可能であるのに、なぜわざわざ遠い遠い、もはや誰もその真実の姿を知ることもないエドヴァルドの話などを、必死に覚える必要がありましょうや」
オヅマもオリヴェルも目を見合わせて、さすがにヒヤリとなった。
エドヴァルド大帝を呼び捨てにするなど、子供であっても有り得ない。もしここが帝都の広場などであったら、
「物事には因果というものがあるのです。すべての事象は繋がりの中にあります。歴史を学ぶというは、それらを丹念に追究することにあります。故にこそ、私の授業においては、因果が明らかなる現代のおけることから歴史の考察を行ってまいります。エドヴァルドの話は壮大なる因果の繋がりの果てに語られることです」
「……あの、先生」
さすがにオリヴェルは二度にわたる教授の不敬を見逃すことができなかった。
「エドヴァルド大帝のことを呼び捨てになさるのは……いけないと思います」
老教授はしばしオリヴェルを見つめた後、またゆるゆると首を振った。
「エドヴァルドが、なぜ大帝と成り得たのか、なぜこの帝国を創ることができたのか、若君はどう考えておられる?」
「それは、神聖帝国を滅ぼして、人々が彼に従ったから……?」
「ふむ。そちらの
小童、という言葉にオヅマはムッとしつつも、マッケネンから教わったことをそのままに話す。
「周辺諸国を平定した後に、神聖帝国と戦争して勝ったからだろ。それでヤーヴェ湖の近くに帝国を築いたって……」
ジーモン教授はあきれた鼻息をついた。
「やはり肝心なことは何も知らぬ」
「はぁ?」
オヅマはこの風変わりな老人に苛立った。
「さっきからなんなんだよ、爺さん。意味のわかんねぇことばっか言いやがって」
「吾輩からすれば、君らのような者達ばかりであることこそ意味がわからぬ。エドヴァルドがあの強大にして永世不可侵とまで呼ばれた神聖帝国に立ち向かうためには、『名も知れぬ
ジーモン老教授は一気に言ってから、ポカンとした少年達の顔を見てすぐに反省した。
「失敬。ひとまずエドヴァルド大帝の事蹟については、またいずれの日にか、因果考証の果てに行うことと致しましょう。今はこの本……吾輩の弟子の書いたものです。この本を読み、分からないことがあれば質問するように。そうして互いの考察を深めていくのが私の授業です。おわかりいただけますかな?」
つまりジーモン教授の歴史の授業は帝国創建からの時代を下るのではなく、現在から遡っていくらしい。
だが、老教授にとって常識的な歴史認識の上で説明されることも多く、そうなるとオリヴェルはある程度わかっても、オヅマにはちんぷんかんぷんだった。
そのためオヅマは否応なく歴史の授業について予習が欠かせなかったし、この初めての授業の時に早速、宿題まで出されてしまったのだった。
オヅマは三人の教師の中で、この老教授こそ「一番の変人」と評した。
無愛想で冗談の通じない、質問に対する答えが少しでもあやふやだとフン、と鼻を鳴らして授業を中断してしまうこともあるような、気難しい性格だった。
そんな老教授に対して一つだけオヅマが楽しみにしていることは、彼が授業の中盤で淹れてくれるアップルティーだった。
見た目とは裏腹に、この老教授はなかなかの甘党で、途中でマリーが運んでくるお菓子を心待ちにしているようだった。
彼にとっておいしいアップルティーとお菓子は、思索を深めるために必要であるらしい。……
この三人の他にもう一人、領府の行政官が十日に一度訪れて、領地の地理や特産物などのことについて教えてくれた。
領地経営などオヅマには関係ないだろうと思ったが、これもまたヴァルナルの意向で授業を受けるように命じられた。
騎士見習いでしかないのに、どうして自分がここまで勉強しなくてはいけないのかとオヅマは疑問であった。そのうえ、本来の騎士となるための訓練に参加できないこともあって、日に日に鬱屈がたまっていった。
だからこそ、事件は起きてしまったのかもしれない。
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