第百四十二話 アドリアンの贈り物

 アドリアンはヴァルナルに、少々かさばる荷物を託した。

 そもそもヴァルナルに部屋に訪ねて来るよう頼んだのは、その荷物を渡すためである。


「なんですか? これは?」

「お土産…かな? オリヴェルに渡してくれ」

「オリヴェルに?」


 ヴァルナルは少し意外だった。オヅマに宛てたものだと思っていたからだ。

 アドリアンは頷いて、


「絶対に渡しておいてくれ。オリヴェルのためになるものだから」

と、念を押した。


 それをヴァルナルから受け取って、包みを解いたオリヴェルは、現れた色彩豊かな絵画に声をなくした。


「わぁ…すごい!」


 一緒にいたマリーが歓声を上げる。


 絵は全部で三枚あった。

 大きさはちょうど、大・中・小と一枚ずつ。


 一番大きいのは夜の荒野を描いたもの。中くらいのものは舞台の上で踊る踊り子、一番小さいものは、胸までの女性の肖像画だった。

 その中でも一番にオリヴェルの目を引いたのは、踊り子のものだ。


 踊り子の姿は完全なものではなかった。

 ブレたような線、無心に踊る踊り子の心情を表したような無機質な表情。

 いくつもの色が煙のように踊り子の輪郭を取り巻き、粗末な舞台の上に立つ彼女を異質なものにしている。

 振り出した指の先からは、紫の煙のような揺らめきが空間を漂っている。まるで呪いか祈りを具現化したかのようだ。

 暗がりの客に顔はない。彼らは彼女の踊りに圧倒されているかのように、その姿は灰色に歪んでいた。

 卑賤な身の上であるはずの踊り子のほとばしる生命力は、神々しくさえあった。そう感じられるだけの迫力を持って、その絵は描かれていた。



 ―――― ただ見たままを捉えて絵にするのではなく、自分の心に感じたものも絵にする…



 オリヴェルはアドリアンの言葉を思い出した。

 まさにこの絵は、画家の心情 ―― この踊り子を見た時に感じた感動もそのままに描いているのがわかる。


 夜の荒野の絵は、踊り子のものに比べると落ち着いたものだった。

 だが、風でうねる荒野の草木はどこかおどろおどろしく、対照的に濃紺の空に浮かぶ満月の光は静謐で、冷たさを孕んで、地上の闇夜を照らしていた。


 女性の胸までの肖像画は既存の肖像画からは、大きくかけ離れた絵だった。

 なにせ、顔の色が一定ではない。点々と細かく塗られた赤、緑、白、黒、青、灰、紫、黄。様々な色で形作られていた。

 それなのにちゃんと人の顔として違和感がない。

 黒い目には、映り込んだ画家の姿も描かれていた。それはこの肖像画の女性と似通った顔立ちの女性だった。眉の太さが印象的だ。


「なんか、手紙もあるぞ」


 解いた包みの中に紛れていた藍色の封筒をオヅマが見つけて、オリヴェルに差し出す。

 オリヴェルが受け取ると、マリーが興味津々と尋ねてくる。


「なんて書いてるの? ねぇ、読んで」


 オリヴェルは頷くと、声に出して読んだ。


「『懐かしい友、オリヴェルへ。

 以前に話したマリ=エナ・ハルカムの絵を君に贈るよ。

 倉庫に仕舞われていたものから、僕が選んだ。

 彼女の活動は長くなかったけれど、最初の頃と終わりの頃でずいぶんと描き方が変わっていったようなので、それがわかるように選んでみた。

 初期の頃のものは夜の荒野の絵だ。

 その次が踊り子の絵。

 一番新しいものが自画像。

 この自画像を描いた後に、彼女は公爵家から出て行ってしまって、その後の行方はわからない。他所よそで彼女の絵が出回ったこともないから、彼女は公爵家から出た後には、描くことをやめてしまったのかもしれない。

 女性の画家で、少しばかり特殊な絵なので、あまり好む人は少なかったのだろうね。

 君が描きたいと望む絵の参考になればと思う。

 いつか君の描いた絵を飾りたいと思うよ。待っているね。小さな』………」


 中途半端に止まってしまったオリヴェルの顔が赤くなって、マリーが「どうしたの?」と声をかける。


「いや。うん…」


 オリヴェルは曖昧な笑みを浮かべて手紙を封筒にしまおうとしたが、オヅマがさっと取り上げた。


「あっ!」


 オリヴェルが声を上げると同時に、オヅマが手紙の末文を読み上げる。


「……『待ってるね。小さなオリヴェル画伯様。信奉者ファンの一人より』……あいつ、口がうまいな」

「もう! オヅマ! 返してよ」

「はいよ。オリヴェル画伯」


 オリヴェルに手紙を渡してから、オヅマは三枚の絵をまじまじと見て肩をすくめた。


「なーんか…普通にうまいって感じの絵じゃないけど、夜中に飛び出てきそうな感じがするな」

「そうだね。躍動感というか…なんというんだろう、画家の気持ちみたいなのが、とても強く感じるよ」

「ふーん。じゃ、気に入ったんだな?」

「え? ……うん、もちろん」


 頷いてから、オリヴェルはもう一度手紙を見てみる。最後の一文を読んで、また顔を赤くしながら笑みを浮かべる。


「まさかアドルが僕の絵のことを気にかけてくれていたとは思わなかったよ。大したことじゃないし、忘れてると思ってたのに」

「そういうやつさ。抜けてるときもあるけど」


 オヅマは少し懐かしくなった。

 自分が寝込んでいる間に帰ってしまったと聞いた時には、不思議と寂しさを感じなかった。

 どうせまた会えるだろう、と何故か確信に近く思ったのだ。だが、こうして手紙なんかをもらうと、遠く去ってしまったのだと妙に実感する。


 一人、ふくれっ面になったのはマリーだった。


「なんでオリーにだけ? 私は? 私にお手紙ないの?」

「え? あれ? ないのかな?」


 オリヴェルはあわてて包み紙の間を調べてみたが、手紙もメモも何もなかった。


「文句言うなよ。お前はアドルからあの外套コートをもらってんじゃねぇか」

「それはそうだけど。私もお手紙欲しいんだもん」

「俺なんざ、なーんももらってないんだぜ。さんざ世話してやったってのに」


「まぁ、よく言うわ」


 それまで静かに子供達を見守りつつ、繕い物をしていたミーナがあきれたように言った。


「あなたが意識を失っている間、一番面倒をみてくれていたのはアドルなのよ。それこそ水を飲ますのだって、濡らした手拭いで口を湿らせてくれたり、毎日着替えだって手伝ってくれて」 

「知らねーし」


 オヅマは面倒そうに答えつつも、どこかでボンヤリと覚えがあるような気もしていた。ハッキリと目覚めるまでに、何度か意識を取り戻すこともあったらしいが、その時の記憶は全部おぼろげだ。


「ラベンダー水で体だって拭いてくれていたんですからね。お陰で、起きた時に臭くなかったでしょう? 感謝しないと」

「あぁ、もう! わかったわかった」


 だんだん恥ずかしくなってきて、オヅマは立ち上がった。


「あら、どこ行くの?」

「図書室。明日までに調べとけって言われてるから」


 ヴァルナルは領地視察から帰ってきた日の予告通り、その翌々日にはオヅマとオリヴェルに一緒に授業を受けさせた。ビョルネ医師から、まだ激しい運動は禁止されているが、座学は問題ないと承諾を得たからだ。


 最初の授業は老学者による歴史の授業で、オヅマはマッケネンから時々学んでいたとはいえ、オリヴェルに比べると学力差は明らかだったので、早速、宿題を言い渡されたのである。


 ミーナは案外と真面目に取り組む息子に、目を細めた。

 最初に聞いたときには驚いたが、元から怜悧なところのあるオヅマに、勉強の機会が与えられたことは、ミーナは素直に嬉しかった。


 もっとも、その先に待ち受けることにはかなり不安ではあったが……。

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