第百三十九話 兄と妹と幼馴染

「………元気なやつ」


 オヅマはあきれたように言いつつも、微笑んだ。

 何より、マリーが無事であればいい。元気で笑ってくれていれば、自分の痛みなど軽いものだ。

 オリヴェルも頷いてからホッとしたように言った。


「良かったよ。あの後、少しの間、マリー、声が出なくなってたんだ」

「え?」


 オヅマはピーカンパイを食べる手を止めた。「なんだって?」


 オリヴェルは自分の軽率な発言を後悔したが、今更、ごまかすこともできない。


「あの…ほんの少しの間だったけど…マリー、ショックで声が出なくなっちゃって…」


 オヅマの顔が固まるのを見て、オリヴェルはあわてて言い足した。


「本当にちょっと間だから! アドルが帰るときに、ギリギリで戻ったんだよ」

「……アドルが帰る時?」

「うん。アドルが帰るって知って、マリー、あわてて追いかけて…その時に声が出たんだって」


 オヅマはしばし、その情景を思い浮かべた。

 そうして鸚鵡返しに尋ねる。


「……アドルを追いかけて?」

「う…ん……そう…」


 オリヴェルは戸惑いながら頷いた。

 オヅマは面白くなさげに腕を組んで、再びつぶやく。 


「……アドルを追いかけて…」

「……そうだね…」

「…………」

「…………」


 オヅマはぎゅうぅと顔中のパーツを真ん中に寄せて渋い顔になったし、オリヴェルもなぜか、モヤモヤした気分が湧き出てきた。



 ―――― なんでアドル相手にそんな必死になるんだ?


 ―――― 仕方ないよね。アドルはあの時、帰るところだったんだから…。



 両者の解釈は微妙に食い違いつつも、オヅマもオリヴェルもこの話題についてあまり深入りしない方がよろしかろう…という点で一致して、二人は黙り込んだ。


 しかし、戻ってきたマリーが無邪気な笑顔を見せて、くだんの人物の名を叫ぶ。


「見て! 見て! これ! アドルに貰ったの!!」


 頬を紅潮させて走ってきた妹が、嬉しそうにアドルの名を呼ぶ。オヅマの眉がピクッと苛立ちを浮かべた。

 オリヴェルもニコニコと笑いながら、そっとマリーから視線をそらす。


 マリーは別れ際にアドルにかけてもらったコートを大事そうに抱えて、オヅマの前に立つと、自分の体に合わせるようにして見せびらかした。


「格好いいでしょう、このコート! とってもあったかいの。アドル、大きいから私が着ても、袖から手が出ないの」

「……じゃ、俺がもらってやる」


 オヅマがヒョイと取り上げると、マリーは真っ赤な顔で怒り出した。


「冗談じゃないわ! 私がもらったんだから!!」

「こんなモン、お前が着るやつじゃないだろ。男物なんだから」


 黒を基調に、紺の縒紐で縁取りされた襟や袖口、中央部分には裏地に使われた黒狐の毛が縫い込まれ、間隔をあけて金色の釦が並んだそのコートは、確かに少女のマリーが着るには硬質な印象だった。


 しかし、マリーにはそんなことは関係ない。


「返してよ!」

「………」


 憤然と抗議するマリーはもう涙を浮かべていた。

 オヅマはいつもなら軽口を二、三挟んでから返すところだったが、この時は早々に差し出した。

 どうも…具合が悪い。色々と。


 マリーは怒ったようにオヅマからコートを取り上げ、ブツブツ文句を言いながらコートの皺を伸ばしたりしていたが、ふと目に止まったものに声をあげる。


「……あれ? なんだろ、これ?」

「どうしたの?」


 オリヴェルとオヅマもなんとなく気になって覗き込むと、マリーは襟元にある小さな紋章エンブレムを示した。


「これ、なんだろ? ……鹿? と、スズランよね、この花。これは鎌?」

「うん、そうだね」


 オリヴェルはすぐにわかった。


 牝鹿とスズラン、交差した鎌と剣はグレヴィリウス公爵家の家紋だ。

 つまり、このコートは特別に誂えた一点物なのだろう。グレヴィリウス公爵家の一人息子であれば、不思議もない。むしろ、質素なくらいだ。


「グレヴィリウスの家紋だな」


 オヅマが言うと、オリヴェルは驚いた。


「オヅマ、知ってるの?」

「知らない訳があるかよ。鎧にも刻んであるし、盾にもついてるぜ。この鹿は牝鹿なんだぞ、マリー」

「そうなんだ」

「牝鹿はサラ=ティナ神の化身ってことで、選ばれたらしいや。まぁ、だいぶ昔の話で本当かどうかわかんねぇらしいけど」

「へぇ…でも、なんでアドルのコートについてるの?」


 マリーの単純な質問に、オリヴェルは詰まった。


 アドリアンが直接、オヅマとマリーに自分の正体を話すことを約束したので、領主館では未だにアドリアンが小公爵であることについて箝口令かんこうれいかれている。


 オリヴェルは約束した当人だから、無論、言うわけにはいかない。

 口ごもっていると、オヅマは当然のように言った。


「そりゃそうだろ。あいつ、公爵の………」


 オリヴェルはオヅマの口から出て来たまさかの言葉に顔を引きつらせた。いつの間に知っていたのかと思ったが……


「従僕だし」


 次に続いた言葉に、一気に脱力する。

 ソファに倒れるように体をもたせかけた。


「どうしたの、オリヴェル? 大丈夫? 気分が悪いの?」


 マリーが心配そうに尋ねると、手を振って笑った。


「いや…大丈夫。ちょっとめまいがしただけで…」

「じゃあ寝ておいた方が…お母さん呼んでくる?」

「いや、大丈夫。うん……そうなんだよ。従僕…公爵様の従僕らしいよね」


 オリヴェルは自分に言い聞かせるように言った。

 あぁ…心臓に悪い。


「ま、そういうことだから。マリー、それ支給品だろうから、今度会ったら返せよ」


 オヅマが言うと、マリーは少ししょんぼりしながらも、頷いた。


「そっか。そうだね…アドル、あの時私があわてて寝間着で来たから、きっと寒そうだと思ってかけてくれたんだ」

「なんだよ。貰ったんじゃねえじゃねぇか、それ」

「だって返せって言われなかったもん。領主様だって、もらっておけばいいって…」

「だあぁ~っ!!」


 オヅマはくしゃくしゃと頭を掻いて叫んだ。


「どうしてなんだって、みんなして甘い! マリーに甘すぎる! 領主様まで!!」

「……………」


 オリヴェルはあきれた…というより、もはやゲンナリとオヅマを見つめた。

 一体、どの口が何を言っているんだろうか。

 この領主館で…というより、おそらくこの世で最もマリーに甘いのはオヅマだろうに。 

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