第百三十八話 オヅマ目覚める
誘拐事件のあった日から
騎士見習いとして当然のように夜明け前の時間に目を覚まし、いざ起き上がってみれば、元いた小屋とはあまりに違う豪華な内装の部屋に混乱する。いつも隣のベッドで寝ていたアドリアンの姿もなく、薄暗い部屋の中で、オヅマはゾワリと肝を冷やした。
―――― まさか……あそこなのか?
内心で問いかけながら、オヅマにもあそこがどこであるのかは、はっきりわかっていない。ただ、見ていた夢の中で、同じような豪華なベッドで寝ていた気がして、オヅマは怖くなった。
―――― 私は決して、お前を見捨てたりはしない……
低い男の声が不気味に響く……。
耳を押さえて身を縮こまらせていると、ドアが開いた。
ビクリと顔を上げて、そこに現れた母の姿に、オヅマは心底ホッとした。
「母さん…」
ミーナはオヅマが寝たきりとなってから、毎日早朝には息子の様子を見に行くことが日課になっていたが、その日、扉を開けて入るなり呼びかけてきたオヅマの姿に、信じられないように呆っと立ち尽くした。
「母さん?」
オヅマがもう一度声をかけると、ミーナはダダッと駆け寄るなり、オヅマを抱きしめた。
オヅマは久しぶりに母親に抱かれて少し気恥ずかしかったが、幸いなことにマリーもいないので、そのまま受け容れた。
母の匂いが懐かしかった。
ミーナは涙を流しながら、ようやく目覚めた息子の頬を撫でて、再び抱きしめる。「よかった」と何度もつぶやきながら。
「それで……マリーは? 大丈夫?」
ようやく落ち着いた母にオヅマがまず尋ねたのはマリーのことだった。
あの時、悲鳴を上げて倒れたマリーの白い顔で、オヅマの記憶は止まっている。
「大丈夫よ。もう元気にしているわ」
「……そっか」
オヅマはホッとしたものの、少しだけ心配だった。マリーは男の首を斬った自分を恐ろしがるかもしれない。
もし、マリーが自分を避けるようなら……そう考えて暗い顔になった時、当のマリーが姿を現した。マリーもまた、母と同じようにオヅマの様子を毎日見に来ていたのだ。
「お兄ちゃん!」
マリーは起き上がっているオヅマを見るなり叫んで、飛ぶように抱きついた。
「ごめんね! 私のせいで、ごめんね!」
マリーがしゃくり上げて泣きながら言うのを、オヅマは不思議がった。
「なんでお前が謝るんだよ?」
「だって、お兄ちゃん……私を助けてくれたのに、私、怖くて……叫んじゃったから……お兄ちゃん、必死だったのに……私が……」
オヅマは泣きそうになった。
さっきまでの心配は吹っ飛んだ。
マリーは、やっぱりマリーだ。あんな怖い思いをさせたのに、謝るなんて。
「バーカ。気にしてねぇよ」
オヅマは笑って、マリーの頭を軽くポンポンと叩いた。
それでも泣きじゃくる妹を慰めて、いったん落ち着かせてから、オヅマは早速、以前のように騎士見習いとしての朝の仕事にとりかかろうと思ったのだが、情けないことに長く寝たきり生活であったために、すっかり筋肉が落ちていた。生まれたての仔ヤギよりも、よろよろと歩く自分に愕然とする。
すぐさまビョルネ医師の診察を受け、徐々に筋力を戻すことと栄養を摂取することを指示された。
「いーいですか? 徐・々・に! です。君はなんでも性急すぎるところがありますからね。徐々に、ゆっっっっくりと! 焦らず! 身体の機能を戻していくように!」
早く治せとわめくオヅマにビョルネ医師は念に念を押して諭した。
オヅマは不満だったが、実際に動こうとしても体が言う事をきかないのだから、医師の言われた通りにやっていくしかなかった。…………が、やはり気が逸る。
「それにしても……よく食べるね」
オリヴェルは目の前で三本目の鹿肉ソーセージを食べるオヅマに呆れつつ圧倒された。一本あたり四十
「仕方ねぇだろ。たくさん食って、力戻さないといけないんだから」
「徐々に、って言われてたと思うけど」
「運動はできることからやってくしかないけど、食べるのはできるから、やれるだけやる」
「お腹壊さないようにね……」
オリヴェルにできる忠告はそれぐらいだった。
三本目のソーセージを食べる前には、レバーパテを挟んだパンも一個丸ごと食べているし、シチューもおかわりしている。見てるこっちが胃もたれしそうだ。
「お兄ちゃーん、ピーカンパイ出来たよ~」
オリヴェルがオヅマの食欲に白目がちになっている間にも、マリーが焼きたてのピーカンパイを運んでくる。甘く香ばしい匂いはいつもならおいしそうに思うのだが、今日は無理だな……とオリヴェルは軽く溜息をついた。
まぁ、でも。
マリーの心底嬉しそうな笑顔が見れたのが、オリヴェルには一番喜ばしいことだった。
アドリアンも帰って、オヅマの意識も戻らず、この
アドリアンが帰る直前に声が戻ると、毎日頻繁に…というよりほとんど詰めっきりでオヅマの部屋にいて、返事のない兄に呼びかけたり、話しかけていた。時々うなされていると、以前にオヅマが歌ってくれた子守唄を歌うこともあった。
それでも目を覚まさない兄に、毎日泣いていた。
オリヴェルはそれを見ていることしかできない自分がもどかしかった。本当に自分はいつも見ていることしかできない……。
「あーあ。アドルがいたら、きっとすごく喜んだのに。残念だわ。お兄ちゃん、どうしてもっと早くに起きなかったのよ?」
マリーは半分に切り分けたピーカンパイを手に持って食べる兄の旺盛な食欲に、すっかり安堵して言った。
「ずっとずうぅーっと、アドルが看病してたんだから。帰るまで、ずっと。お兄ちゃんがなかなか起きないから、お別れの挨拶もできなかったじゃない」
「知らねぇよ。あいつが勝手に帰ったんだろ」
「仕方ないよ。実家に呼ばれたんだから。きっと、色々聞いて心配されたんじゃないかな」
オリヴェルが言うと、マリーは少しだけ寂しそうな顔になった後に、「そうだ!」と声を上げた。
「アドルに貰ったものがあるの。お兄ちゃんにも見せたげる!」
言うやいなや、マリーは走って行った。
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