第百三十五話 エリアスの憂鬱
「そなた達は、よほどに息子を公爵にしたいようだな」
戻ってきたルーカスに公爵はつぶやくように言う。まだ窓際に立って、日暮れの庭園を憂鬱に見下ろしていた。
「お望みではありませんか?」
ルーカスは尋ねてから、いつになく真面目な顔になって、その場に直立した。
「私もヴァルナルも、
「………」
背を向けたままの
その時にどういう手順で行い、廃嫡したアドリアンのその後の処遇についてすらも、ルーカスは考えていた。この公爵の懐刀は何か命じられる前から、主君の気持ちを忖度して、いくつかの方策を考えているのだ、常に。
問いに答えず、エリアスは淡々と話す。
「レーゲンブルトに行って、色々とあったようだな。帰ってきたら、随分生意気になったと、不満をもらす従僕もいたようだが……」
ルーカスは丸い腹をいつも重そうに揺らして走り回っていた小公爵付きの従僕 ―― ウルマスの姿を思い浮かべた。
「かの男はアドリアン様に対して礼を失したのです。それを咎めただけのこと。生意気だなどと、申し立てる方がどうかしているのです」
数日前、ウルマスは解雇された。
元はウルマスの怠慢である。
ウルマスが自分の用事を優先して、アドリアンが歴史の教師に授業の時間変更を求めた伝言を忘れた。
それまでであれば、形だけの謝罪で終わった話であったのだが、アドリアンは何度も重ねられた自分への非礼に何らの反省もない従僕に対して、とうとう解雇という罰を下した。
無論、ウルマスはすぐさま執事に文句を言い、執事もまたアドリアンに撤回を求めたが、彼らはかえって小公爵の怒りに火を注ぐ結果となった。
「この家ではいつから従僕や執事が主の息子に物申すようになったんだ? 礼儀も弁えぬ者がグレヴィリウスにいる必要はない」
最終的に家令のヨアキム・ルンビック子爵にまで話がゆき、ルンビックは感情的になって文句を言い立てる従僕と執事の話を聞いた後、アドリアンの元を訪れて今回の経緯について尋ねた。
アドリアンは極めて冷静に彼らの非礼について一つ一つ話して聞かせ、結果、家令は執事と従僕ウルマスを解雇した。
この件以来、公爵家においてそれまでアドリアンを軽んじていた人間は戦々恐々としている。
いつ、自分達も解雇の憂き目にあうかもしれない。
しかしエリアスは冷淡に言った。
「礼を失していたのは、今に始まったことでもなかろう」
ルーカスは眉を寄せた。
「知っていらっしゃって、手立てを講じなかったのは、アドリアン様への恨みからですか?」
「……恨み?」
エリアスは振り返ってルーカスを見つめる。
ルーカスは内心でエリアスを痛ましく思った。
元々、この人は傷つきやすいのだ。それがわかっているからこそ、硬く自分の気持ちを覆った。幼い頃からの訓練と、自らの強靭な意思によって。
殻を開かせることができたのは、唯一リーディエ夫人だけだったが、彼女の死によって、再び殻は閉じられた。
十年以上の歳月を経てもなお、エリアスが味わったあの時の絶望は続いているのだ……。
「ルーカス・ベントソン。お前はあの子がグレヴィリウス公爵たるに
エリアスは夕日を背にして問いかける。その顔は逆光で翳っていた。
ルーカスは冷静に所感を述べた。
「将来のことはわかりかねますが、少なくとも、今回のレーゲンブルト行きがアドリアン様に何かしらの覚悟をさせたことは間違いないでしょう。彼らはあわよくばアドリアン様を殺害し、クランツ男爵の評判を
そう。皮肉にもアドリアンを追い落とすことを画策しながら、やつらはもっとも厄介な人間を目覚めさせた。
虎の尾を踏んだのだ。まだ、小さい虎だが。
エリアスは腕を組むと、軽く首をかしげながら問うた。
「影響を与えたのが、お前の言っていた
「小僧だけでなく、ヴァルナルの息子も含めて、子供同士、随分と仲良くなったようです。おそらく自分だけを狙ったのであれば、アドリアン様も今まで通り、黙って受け入れられたのでしょうが、友が危機に遭って、さすがに我慢ならなかったのでしょう」
それは推測であったが、おそらく正解だろう。
ルーカスは話しながら、フ……と口の端に笑みを浮かべた。
「エリアス様が公爵になると決められた時と……似ていますね」
エリアスもまた、当主の息子として生まれながらも、さほどに公爵の地位に興味はなかった。なんであれば、周囲の人間の
だが、異母弟一派はよりによって、もっとも手を出してはならぬ相手に危害を加えようとしたのである。
リーディエの危機を目の当たりにして、エリアスは確実な安寧を手に入れるために、公爵位に執着するようになった。彼が本気で望んだ時、もはや阻止できる者はいなかった。
それまで大人しく柔弱なる小公爵とエリアスを
「あなたの子ですよ、アドリアン様は」
ルーカスが言うと、エリアスはまた窓の外を見て、亡き妻の丹精した庭園を眺めた。
「酔狂な者達だ」
静かに、エリアスはつぶやく。
「進んでこんな
鳶色の瞳は虚ろだったが、その言葉は今も昔も偽らざるエリアスの本心だろう。
ルーカスは目の前の主を見つめながら、その心中を思った。
この人はそもそも公爵になどなるべき人ではなかった。護るべき人のために、自ら望まない姿になったのに、その人はもはや旅立ち、エリアスに残ったのは公爵という地位だけだった。……
「ヴァルナルの健闘を祈りましょう」
ルーカスはいつもの軽い口調で言った。
エリアスはフッと笑う。
「そうだな。嘘か本当かわからぬが、もし真実、その小僧に『千の目』という
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