第百二十九話 黙らざる小公爵

「ヴァルナル!」


 アドリアンはヴァルナルの姿が廊下の中央に見えると、大声で呼びかけた。


 正面玄関から公爵執務室のある本館に通じる大廊下には、召使いや、公爵家に出入りの商人、職人、領地行政官など、多くの人々が忙しく行き交っていたが、普段はおとなしい小公爵の声が響くと、皆驚いたように立ち止まった。

 注目を浴びる中を、アドリアンはまったく気にも止めずに早足に歩いてくる。


 アルビンは一瞬、冷たい表情を見せてから、すぐにいつもの得体のしれぬ笑顔に戻って、近づいてくる小公爵に向かって恭しくお辞儀した。

 ヴァルナルも深く頭を下げる。

 その場にいて一人だけ昂然とアドリアンに立ちふさがったのが、オルグレン男爵だった。


「いけませんぞ、小公爵様! このような罪人と軽々に口をきくなど!!」


 アドリアンは足を止めると、巻髪を揺らすオルグレン男爵を見上げた。


「罪人?」

「左様。畏れ多くも小公爵様を守ることもせず、危機を招いたのです。今日、このアールリンデンにばれた理由も、公爵閣下からの厳しい叱責のうえ、何かしら処分が下されるのでありましょう。まさしく罪人も同様!」


 ヴァルナルは言われるがままにしておいた。実際、今日、ここに呼ばれたのはそういう理由であろうし、アドリアンを危地にやったことには間違いない。 


 しかしアドリアンは苛立たし気に眉を寄せると、静かにオルグレン男爵をたしなめた。


「危機を招いたのは僕自身の浅はかさによるものだ。ヴァルナルに罪はない。このことは父にも申し伝えてある。彼が罪人として罰を受けるのであれば、僕も同様に罰せられるべきだろう」


 いつもはどんな誹謗や中傷を受けても、黙って耐えているだけの小公爵が珍しく言い返してきたので、オルグレン男爵は目を白黒させた。

 滅多と表情を変えることのないアルビンまでもが、思わず顔を上げてアドリアンを見た。


 アドリアンはその二人を見上げつつも、公爵と同じとび色の瞳に怒りを滲ませて問いかけた。


「ところでオルグレン男爵は、僕に対して礼を失することを気にしておられぬらしいな。シャノル卿も」


 婉曲な恫喝にオルグレン男爵は、あわてて胸に手をあてて頭を下げた。


「もっ…申し訳ございません。小公爵様」

「………失礼いたしました、様」


 アルビンが再び頭を下げて謝ると、アドリアンは口元に微笑をひらめかせた。


「珍しいな。シャノル卿が僕をと呼ぶのを初めて聞いた」

「……長く…不明であったことをお詫び致します」


 アルビンは素直に自分の非礼を詫びた。

 彼はアドリアンの不在の時はもちろん、本人を目の前にしても「アドリアン」と呼んでいた。

 それは勿論間違いではない。だが、公爵の跡継ぎであることを認めまいとする明確な意志表示でもあったのだ。


 今までアドリアンはその無礼な態度を許してきた。

 自分よりも年上で、周囲からも認められ、父とも親しく話すことのあるハヴェルの方が小公爵たるに相応しいと思っていたからだ。

 だが、レーゲンブルトからの帰り道にアドリアンは決めた。もう小公爵であることから逃げないと。


「二人とも、既に用件は済んだように思うが、まだここにいる理由が?」


 アドリアンが暗に立ち去ることを求めると、アルビンはまたふくよかな顔に柔和な笑みを浮かべて如才なく言った。


「長々と居残って申し訳ございません。クランツ男爵がもうすぐ来着されるらしいと聞き及びまして、一言ご挨拶がしたくて留まっておりました」

「わ、私もそうでございます! 他意はございません」


 オルグレン男爵もあわてて調子を合わせると、アドリアンは二人を冷めた目で見た。


「では、これにて希望も叶いましたので、小公爵様のご意向に添いまして、臣は下がらせて頂きます」 


 慇懃無礼とはこの事なのかもしれない。

 アルビンは言葉だけは丁寧に、流暢に言って去ろうとしたが、アドリアンはその丸い背に呼びかけた。


「シャノル卿。叔母上に伝言を頼めるか?」


 アルビンは立ち止まり、しばし間をあけて振り返った。見事なくらいの笑顔だった。直前まで額に浮いていた青筋はどこに隠したのであろうか。


「ヨセフィーナ様に何か?」

「見舞いの品をありがとう、と。とても綺麗な白薔薇だった」


 その言葉にヴァルナルはむゥ…と、ほとんど聞こえない声で低く呻いた。

 周囲でそれとなく聞き耳を立てながら歩き回っていた人々も、ピタリと一瞬、動きを止めた者はそれが何を意味しているのかを知っているのであろう。


 白薔薇は亡き公爵夫人リーディエの最も好んだ花であった。

 彼女が若くして亡くなった時、その棺や祭壇、彼女が永遠に眠る墓地への道までもが、帝国中の白薔薇を集めたのではないかと思われるほどの、溢れんばかりの白薔薇で埋め尽くされた。


 その葬儀以来、このアールリンデンにおいても、帝都においても、公爵家の庭に白薔薇は一切植えられない。禁忌の花であった。

 そうした事情を侯爵夫人が知らぬ訳がないのだから、その見舞いとやらが純粋な同情や心配から来たものでないことは明白だ。


 アルビンは侯爵夫人の意図を承知しつつ、今この場でその事を持ち出したアドリアンに密かな苛立ちを覚えた。

 ずいぶんとこましゃくれたことをするようになったものだ……。


「お慰みになったのであれば、なによりでございます。ご伝言はしかと承りました」


 何も知らぬとばかりに、アルビンは笑顔で言ってその場から立ち去った。

 その後にオルグレン男爵がワタワタと追いかけていく。リボンで縛った巻き毛が揺れるのを見て、きっとあの蓑虫のような前髪も揺れているんだろうな…と、さっきの光景が思い浮かぶと、ヴァルナルはとうとう堪えられず噴き出した。


「どうした?」


 アドリアンが目を丸くする。


「いえ…なんでもありません」


 ヴァルナルは軽く咳払いして、どうにか笑いをおさめると、改めてアドリアンに挨拶した。


「失礼しました、小公爵様。お元気そうで何よりです」

「僕は大丈夫だ。それより、オヅマは? もう意識は戻ったのか?」

「………私が出る時にはまだ…」


 ヴァルナルが残念そうに言うと、アドリアンの顔は曇った。「そうか…」と力なくつぶやく。


「小公爵様、何か御用があおりだったのでは?」

「あぁ、実は…」


 アドリアンが言おうとしたときに、ヴァルナルを呼ぶ従僕の声が響く。


「クランツ男爵! 公爵閣下がお待ちですよ!!」


 アドリアンは一瞬口を噤んでから、早口で言った。


「父上との話が終わったら、僕の部屋に来てもらえるか? 頼みたいことがあるんだ」

「承知しました」


 その場でアドリアンと分かれると、ヴァルナルは公爵の待つ執務室に向かった。

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