第百二十八話 公爵閣下からの召喚

 ヴァルナルがグレヴィリウス公爵からの召喚状を受け取ったのは、誘拐事件のあった日から一月と十日が過ぎた、雪解けの月の末日のことだった。


 既にいつでも行けるように準備を整えていたので、召喚状が届くやいなや、ヴァルナルはレーゲンブルトを出立した。

 通常であれば五日はかかる道程を、黒角馬を自ら駆って、三日で公爵家本領地・アールリンデンに辿り着いた。


 種撒きの月を迎えたアールリンデンは、春の陽気でアーモンドの花がほころびはじめていた。


 種々の春の花が咲き乱れる公爵邸の庭は、亡き公爵夫人が特に力を入れて造成されたものだった。庭師が夫人の想いを継いで今も丹精こめて世話しているらしい。青臭く甘い匂いが春風に乗って運ばれてくる。

 ヴァルナルは清新なその風を胸深く吸い込んだ。


 邸内に入って公爵の執務室に通じる大廊下を歩いていると、ファルミナ領主のセバスティアン・オルグレン男爵は待っていたのか、形式的な挨拶もそこそこに、痛烈な皮肉を浴びせてきた。


「小公爵様を守れぬばかりか、我が子を犠牲にするとは…黒杖が泣くことよな、ヴァルナル・クランツ」


 艶やかなルビーのような赤い髪が自慢のオルグレン男爵は、前髪に一房大きな巻髪をいつも作っているのだが、鷲鼻に垂れたその巻髪がフンと荒い鼻息で揺れるのが、ヴァルナルにはいつも滑稽だった。特に今回のように嫌味を言ってくる時には、なおのこと笑いそうになる。


「……勝手に息子を殺さないでもらえますか? オリヴェルは死んでおりません」


 あえてムッと怒ったのも、実のところは吹き出しそうになるのを堪えるためだった。しかし、オルグレン男爵は怒ったヴァルナルを見てかえって気をよくしたようで、またフンと鼻を鳴らした。


「ほぉ。よくも口答えなどできるものだ。私なら平身低頭して、ただひたすら謝るのみ。クランツ男爵は、此度のことをあまり大したことだと思っておらぬようだな。犯人を処分できたゆえ、失地回復できているとでもお思いかな?」


 普段、ヴァルナルに嫌味など言えることが滅多とないからなのか、オルグレン男爵は執拗だった。

 いきりたって言うほどに、鼻の上に垂れた巻髪がぶらんぶらん揺れて、まるで木にぶら下がる蓑虫のようだ。


「あれほどまでに公爵閣下の前で見栄を切っておきながら……」


 ぶらん、ぶらん。


「大事な小公爵様を危地に追い込むとは………」


 ぶらーん、ぶらーん。


「誠に騎士としての心がけ、その精神を鍛え直す必要がありましょうな!」


 ぶららーん。


「……………」


 ヴァルナルは顔を俯けて必死で笑いを堪える。

 その姿は一見すれば、反論できずに屈辱に震えているように映ったのだろう。


「……オルグレン男爵、さように追い詰めるものではありませんよ」


 柔らかく割って入る声に、ヴァルナルはピクッと眉を寄せた。

 顔を上げてみればオルグレン男爵の背後に、にっこりと柔和な笑みを浮かべた芥子けし色の髪の、小太りの男が立っている。


「……久しぶりですな、シャノル卿」


 ヴァルナルはすぐさま気を引き締めた。

 オルグレン男爵などよりも、もっとタチの悪いのがやってきたからだ。


 アルビン・シャノル。

 グレヴィリウス公爵の元養子であった、ハヴェル公子の乳兄弟だ。

 彼の母親は公子の乳母として、男爵夫人の称号をもらっているが、あくまでこれは一代名誉であるので、彼自身に爵位はない。一応、公子の執事兼補佐官として准騎士の位は与えられているものの、貴族として扱われる身分ではなかった。

 ヴァルナルとの関係性で一番近いものといえば、執事のネストリが昔ハヴェル公子の従僕であったので、彼と知見があるということだろうか。


「アールリンデンでお会いするとは思ってもみませんでした」


 まずヴァルナルが「なんでお前、こんなところに来てるんだ?」と遠回しに尋ねると、アルビンはそのふっくらしたマシュマロみたいな顔に、人の良い笑みを浮かべた。


「えぇ、それが嬉しいことに、此度ハヴェル様のご婚約がまとまりまして。まだ、内々のことではありますが、まずは一番に公爵閣下にご報告に上がりましてございます」


 アルビンは慇懃に言いながら、その苔緑モスグリーンの瞳は油断なくヴァルナルの様子を窺っている。

 ヴァルナルはアルビンの誘い水に乗った。


「それはめでたいことです。お相手はいずこのご令嬢です?」

「イェガ男爵のご長女でございます」

「ほぅ…」


 ヴァルナルはかろうじて笑みを保って相槌をうつと、素直に驚いてみせた。


「イェガ男爵に、そのような年頃のご令嬢がいたとは初耳です。私が知っている限り、イェガ男爵家は男の御子方三人の後に、ようやくご令嬢が誕生したと喜んでおられたのが、つい最近のことと思っておりましたが……」

「ハハハ、男爵。もうそのご令嬢も十一歳でいらっしゃいますよ。時は等しく流れても、人それぞれに早さは違うようですね」


 ヴァルナルは笑顔を浮かべたまま、顔が引き攣りそうになった。

 今年で十一歳ということは、ハヴェルとは八歳差ということだ。

 無論、そうした年齢差の結婚がないわけではないが、わざわざ侯爵家の令息が選ぶにしては、身分も年も離れすぎている。


 アルビンはヴァルナルの心のうちを見透かしたように、付け加えた。


「イェガ令嬢も六年もすれば十七歳。立派な婦女レディとなられます。その時には年の差もさほど気になるようなことでもないでしょう」

「なるほど。六年も前から婚約を急がれるとは、よほどに見込まれたものですね。イェガ令嬢も」

「えぇ。とてもお可愛らしい方でいらっしゃいますよ」


 腹の探り合いはそこまでだった。

 ヴァルナルが来たことを伝え聞いたアドリアンが走ってやって来たからだ。

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