第六章

第百二十四話 その死は日常のもの

 湖畔の都とも呼ばれる帝都・キエル=ヤーヴェは縦横に運河がはしっている。だから水死体が上がるのは珍しくなかった。まして貴族の住まうような上層地区でなく、下層の掘っ立て小屋の並ぶ貧民街であれば、酔漢や、ならず者同士が喧嘩で水路に落ちて命を失うのは日常茶飯事であった。


 その日、ガシャナ地区の水路で見つかった死体は、正確には水死体ではなかった。彼の背中には大きく深い傷跡があったからだ。しかも両足首と腰には藻の絡んだ紐が巻かれていた。

 途中で紐は千切れていたが、おそらくその先には死体を沈めるための重石がつけてあったのだろう。日が経って、紐についた藻を魚が食っているうちに、紐が千切れて死体が浮かんだのだ。


 一応検分にあたった警邏けいら隊の庶衛士しょえいじ(*公的認可のある民間警察官)によってそうした推測は行われたが、だからといって彼らが死体の男を殺した犯人を見つけることはなかった。

 よくある荒くれ者同士による喧嘩の末のことであろうと、特に捜査が行われることはなかったのだ。

 それも珍しくない日常の光景だった。


 ガヤガヤと騒がしい群衆に紛れて、エラルドジェイはその死体を見ていた。

 ゴツっと、そそっかしい警邏隊の新米庶衛士が死体の頭を蹴ると、上を向いていた男の顔がこちらを向いた。

 エラルドジェイは口の中でその名を呼んだ。


 ……ニーロ。


 自分の師匠であり、養父ちちでもあった男。



 ―――― もう俺の人生の折り返し地点はとうに過ぎてんだ。勝負に出るなら、今かもしれん……



 勝負に負けた彼の顔は白く、ぶよついて往時の面影はなかった。


 エラルドジェイはその場を立ち去った。


 どうやら見通しは甘かったらしい。なぜ自分達が目をつけられたのかはわからないが、黒幕はダニエルだけで済ます気はないようだ……。


 慎重に身を隠しながら、エラルドジェイは数日の間、ニーロを殺した犯人について探った。

 それは案外とすぐに割れた。


「あんたが裏切ったとはな、アウェンス」


 ニーロの作った弱小闇ギルドの受付係兼構成員でもあったアウェンスと、その妻のグリエは、エラルドジェイが自分達の新居に現れた途端、真っ青になった。


 肉屋が閉店していた段階で、エラルドジェイはアウェンス一家ごと消されたのかと思って心配していたのだが、何のことはない。中身を開ければ、アウェンスは今回のダニエルの前金三十ゼラ目当てにニーロを襲ったのだった。


 小さなギルドで、構成員などエラルドジェイの他にはアウェンスとその妻ぐらいなものだったから、上下関係などあってないようなものだった。

 だからニーロもアウェンス達を警戒していなかったのだろう。

 さもなければ、背後からあんなにグッサリときれいに刺されることなど有り得ない。いっても、ニーロはエラルドジェイにこの稼業のイロハを教えてくれた達人なのだから。


「ジェイ…」


 アウェンスがかすれた声で呼びかける。


 ニーロ同様に家族同然の付き合いをしつつも、エラルドジェイは彼らに秘名ハーメイを教えることはしていなかった。

 なぜだかはわからないが、教える気になれなかった。

 今となれば、自分の感覚は合っていたようだ。


「……勘弁しとくれ、ジェイ!」


 普段無口なアウェンスの妻・グリエが叫んだ。


「息子の薬がったんだよ!」


 エラルドジェイは眉を上げる。


「マルコがどうしたって?」


 アウェンスとグリエの間には子供が二人いた。

 子供達は二人とも、両親が裏でどういう仕事をしているのかは知らない。

 ニーロとエラルドジェイのことも、家の二階を間借りしている居候としか思っていなかった。


 マルコは今年で九歳になるが、エラルドジェイが知り合った頃には既に病気の身の上だった。

 アウェンス達はその病気について詳しいことを教えなかったが、よほどの重病であろうことは、マルコがずっとベッドで過ごし、家から一度も出たことがないことを考えれば、おおよそ理解できた。


 だからこそエラルドジェイもニーロも、自分達の報酬からいくらか家族に援助していたのだが ―――


紫蝶しちょうびょうなんだよ…」


 力なくグリエは言った。「もう、足は動かない…」


 紫蝶病は、下半身から紫斑しはんが増えていき、徐々に神経が麻痺して、最終的には全身に紫斑が広がって心臓の麻痺が起きて死に至る病気だ。

 初期の両足裏に現れる蝶のような形の紫斑の段階で治療を開始すれば全治も可能であるが、庶民にはその薬も、治療するために医者に通うことも難しい。

 一度、罹患すればただただ死を待つしかない。


 しかもこの病は伝染病ではないのだが、その見た目の醜悪さから忌み嫌われ、罹患した者が虐待を受け、捨てられたり殺されることも珍しくなかった。だから、アウェンス達は隠していたのだろう。いくら家族ぐるみで仲良くしていても、こうした病を嫌悪して豹変する人間は少なくない。


 しかしエラルドジェイの表情は動かなかった。

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