第百二十三話 父の与えた罰

 馬車の中でアドリアンはまた無表情に戻って、暗い窓の外を見るともなしに見ていた。


 領府を抜け、街道を走り出すと、徐々に夜が明ける。

 アドリアンの脳裡に、初めての朝駆けのときのことが浮かんだ。


 金の曙光が地平線を貫くように光って、やがてドロドロと滴り落ちそうな赤の太陽が空へと昇っていく。

 東の空にたなびく雲は紫や橙に光り、西の空には輝きを失っていく三日月が、しずかに地平に沈んでいく。



 ―――― なかなかやるじゃねぇか。



 ニヤリと笑ったオヅマの顔が懐かしい。

 もう、懐かしいものになっていることに、アドルは途端に胸が苦しくなった。


 血がにじむほどに唇を噛み締めて泣くのをこらえていると、昨夜のオヅマの声が聞こえてくる。



 ―――― ずっと泣きそうだったろ?



「うっ…」


 アドリアンは耐えきれず、嗚咽おえつした。

 目の前に座っているウルマスがギョッとして、声をかけてくる。


「ど、どうなさいました?」

「………」


 アドリアンは両手で顔を覆うと、もはや悲しみを押し殺すこともなく、声をあげて泣いた。今はひたすら泣きたかった。


 たった数ヶ月。

 なのに長く暮らしてきたアールリンデンにいた頃よりも、思い出は深くアドリアンに刻まれていた。



 ―――― この子は、しばらくお前の対番ついばんになる

 ―――― えっ?



 互いに嫌悪感しかなかった初対面。



 ―――― だからぁ、返事っ



 理不尽なくらいに横柄で、尊大な対番。

 絶対に仲良くなるなんて、有り得ない。



 ―――― おはよう。今日はお天気だって



 傍若無人な兄とは対照的な、笑顔のかわいい、エメラルド色の瞳の少女。

 慣れない生活の中で、唯一彼女だけが最初からずっと変わらず、やさしかった。



 ―――― オリヴェル・クランツ。銀鶲ギンオウの年生まれだ



 なぜか初対面で好戦的だった、尊敬する騎士の息子。

 仲良くなれるかもと想像していたのに、思っていたよりも子供っぽくてがっかりした。

 それでも彼の描く絵の見事さを褒め称えると、顔を真っ赤にして小さく礼を言った。



 ―――― あ…あり…がとう



 そういえば、その時にマリーに言われたことが意外だった。



 ―――― アドルは素直で物知りだから…



 今までに『素直』な子供だと言われたことは、一度もなかった。むしろ周囲の人間が言うように、妙に老成したつまらない部類の子供だと自覚していたし、そうあろうとしてきた。

 でも嬉しかった。

 後で何度も思い出しては噛みしめた。彼らの前でだけは、自分は子供でいいのだと、許された気がした。


 優しい妹と違って、天邪鬼な兄の方はいつも人を怒らせるようなことばかり言ってきた。



 ―――― お前に出来ないことがあったって、別に問題ないから~



 思い出してもムカっ腹がたつ。あの言い方。完全に馬鹿にしている。

 幼い頃から完璧であることを求められて、いつも応えてきた。大人しく降参することなどできなかった。

 そうやってムキになって対抗する自分が新鮮だった。


 けれど、いつも憎まれ口を叩いていた彼の痛々しい姿に、言葉を失った。



 ―――― 見え…ない……



 その声は、普段の傲岸不遜な彼からは想像できないほどに弱々しかった。

 蝋のような白い顔で、それでも彼が言ったのは一言。



 ―――― たすけたかった……  



 ただひたすらに、守るもののために戦ったオヅマ。



 ―――― 君は、僕たちを助けたんだよ、アドル



 自分を責めるばかりのアドリアンを勇気づけてくれたオリヴェル。



 ―――― 『ありがとう、アドル』



 声を失うほどの恐怖を味わいながら、それでも笑って励ましてくれたマリー。


「……うぅ…うぅッ…!」


 アドリアンは涙をこらえなかった。

 つらいことを乗り越えるために、今はひたすら悲しみたい。自分を憐れみたいのだ。


 ポカンと見ていたウルマスは、ゴホンと咳払いすると鹿爪らしい顔で注意する。


「小公爵様、そのようにみっともなく泣くものではございません。公爵閣下が見れば情けなく ――」

「うるさい! 黙っていろ!!」


 アドリアンが一喝すると、ウルマスは言葉を詰まらせウヒっ! と妙な音を出した。それからはなるべく小さくなって沈黙する。


 ガタゴトと音をたてながら、馬車は朝焼けの空の下を進んでいた。

 アドリアンははなをすすると、窓の外へと目をやった。

 だんだんと温かさを帯びてきた早春の光が、まだ種蒔き前の雪の残る畑に燦々と降り注いでいる。

 雲雀ひばりが時折、鋭く鳴いて飛んでゆく。その先には、遠く藍色に霞むグァルデリ山脈が美しくそびえ立っていた。

 流れゆく朝の景色が美しいほどに、涙がこぼれる。

 アドリアンはさめざめと泣きながら思った。


 父は確かにを与えたのだと。

 それも、とてつもなくつらい罰を。


 彼らに別れを告げなければならないことが、心が引き千切られるみたいに痛む。

 こんなに苦しい気持ちになるなら、いっそ鞭打ちでもされた方がマシだ。


 だが ―――


 もしオヅマ達に会えないままに、公爵邸で過ごしていたら……?


 アドリアンはゾッとした。

 あのまま泣くこともなく、つらい気持ちを押し殺して生きていくなんて、今ではもう考えられなかった。



 ―――― 諦めんな。もっと…足掻けよ……



 血の気の失せた顔で、それでもオヅマはアドリアンを励ます。



 ―――― 俺は……抗う。



「…う…クッ…!」


 アドリアンはまた喉をのぼってきた嗚咽おえつを飲み込んだ。


 きっと、また来る。

 約束したのだ。


 誰であっても約束は破ってはならないが、彼らを裏切ることは絶対にできない。

 だから、また戻ってくる。必ず、会いに行く。

 そのためには、父とも向き合う。


 ギリ、と奥歯を噛み締めてアドリアンは顔を上げた。


 決然としたとび色の瞳は、いつもの諦めと無関心の鎧を捨て去っていた。

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