第百二十二話 マリーとアドルの約束
オリヴェルはまだ夜も明けないうちから、遠くから聞こえる馬の
昨晩、アドリアンとまた会うことを約束して別れたものの、オリヴェルにはどうしても気にかかることが一つだけあった。
マリーだ。
朝……日が昇って起きたマリーに、アドリアンが帰ったことを伝えたら、きっと驚くだろう。そして、きっとひどく悲しむに違いない。
オリヴェルにはマリーが
チラ、とヴァルナルが帝都で買ってきてくれた小さな振り子時計を見る。黒の四ツ
オリヴェルは決心すると、マリーに呼びかけた。
「マリー、マリー。起きて。起きて、マリー。アドルが帰っちゃうんだよ、マリー!」
マリーは元々早起きであったので、さほどにくずることもなく目を覚ました。ぼんやりと、まだ夢見心地のマリーに、オリヴェルは少し強い口調で繰り返した。
「マリー、アドルが帰っちゃうんだ!」
マリーは急にハッと瞳を大きく開いた。
信じられないようにオリヴェルを見つめる。
「アドル、朝早くに…今、もうすぐここから出発しちゃうんだ。お別れに行くなら……」
オリヴェルが話している途中で、マリーはベッドから降りて駆け出した。
寝間着のまま、靴も履かずに。
―――― 嫌だ!
マリーは走りながら、心の中で叫んだ。
涙がこみ上げてくるたびに、ゴクンと唾を飲み込む。
―――― 嫌だ! 嫌だ! どうして? どうしてこんなに急なの? どうして今なの?
疑問があふれる。
言いたいことはいっぱいあった。
せっかく覚えた祭りの踊りのことだって、春になったら川べりのれんげ草を摘みに行くことだって、勧めてもらった少し難しい本を、今、一生懸命読んでることだって。
玄関ホールが見える場所まで来ると、ちらほらと大人が集まっているのが見えた。
まだ夜明け前で、ほとんどの使用人は寝ている時間だ。
薄暗い中、ランタンを持ったネストリの姿を見つけて、マリーの足が竦んだ。いつもは怒鳴りつけるように命令するのに、今は静かにコソコソとなにやら指図している。
やがてコツコツと固い足音が聞こえてきて、マントを羽織った大柄な金髪の男が玄関の扉へ向かって歩いて行く。その後に付き従うように、黒髪の少年が歩いて行くのを見て、マリーはあわてて走り出した。
階段を駆け下りながら、心の中で何度もアドリアンの名を叫ぶ。
「お気をつけて」
扉の前にはミーナが立っていた。優しい笑顔を浮かべて、アドリアンを送り出す。
「ありがとう」
アドリアンの声が聞こえる。
マリーはようやく玄関ホールまで降りてくると、一旦、苦しくて立ち止まった。ハァハァと激しく肩が上下する。スゥと息を吸い込むと、また走り出した。
「おゥッ!」
ネストリは脇をすり抜けていった小さな突風に、思わず声を上げた。
「あっ…待て」
あわてて手を伸ばしたが、なるべく他の使用人に気づかれないよう静かに送り出すこと…と、ヴァルナルに厳命されているので、大声で怒鳴ることもできない。
ミーナは自分の前を走っていった小さな影を、一瞬驚いたように見送ってから、飛び出していったのがマリーとわかると、あわてて後を追いかけた。
「マリー!」
ミーナが叫ぶと、馬車の前でヴァルナルに挨拶していたアドリアンが気付く。
マリーは心の奥底から必死に叫んだ。
「アドル!」
泣きながら自分の胸に飛び込んできたマリーに、アドリアンは心底驚いた。
同時に、ホッと笑みが浮かぶ。
「良かった。声が……戻ったんだね」
しかし、せっかく戻ってきたマリーの声は、泣きじゃくってまともに発することもできなかった。
アドリアンはマリーが寝間着姿で寒そうだったので、すぐに自分の
「嫌だ! どうして帰っちゃうの!?」
マリーはどうにか
「お兄ちゃんだって、まだ治ってないのに! お祭りの踊りだって踊ってないよ! 約束したじゃない!」
小さな女の子が、しゃくり上げながら真っ赤な顔で小公爵に怒鳴りつける様子を見て、ルーカスはニヤニヤと笑っていた。
ヴァルナルは突然過ぎて驚くばかり。
ミーナがマリーの肩に手をかけて、やさしく
「マリー。アドルはおうちに戻ることになったの。だから、ちゃんとお別れを言いましょう」
言いながらマリーをアドリアンから引き剥がそうとしたのだが、マリーは「
「まったく…なんと無礼な」
ウルマスが眉間に皺を寄せてつぶやくのを聞くと、アドリアンは黙るように目で制してから、マリーにやさしく言った。
「ごめんね、マリー。急に決まって、驚いたよね。踊りもせっかく教えてくれたのに、踊れなくなってごめんね。オヅマのことも……ごめん」
アドリアンの声は震えていた。
そっと自分の背中をさするアドリアンの手に、マリーは落ち着いてくると、手を緩めた。少しだけ離れて、じっと涙に濡れた目でアドリアンの
アドリアンに会ったばかりのころ、この鳶色の目が少しだけ怖かったのをふと思い出した。
悲しくて、つらい気持ちを押し殺した、硝子のような瞳。
日が経つにつれ、その瞳はやさしい光をともすようになった。
今ではマリーはこの鳶色の瞳が大好きだった。
「マリー」
アドリアンはマリーと目線を合わせるように立膝になると、そっとマリーの濡れた頬に手をあて涙を拭った。
「ありがとう。友達になってくれて」
マリーはコクンと頷くと、また涙がボロボロこぼれた。
アドリアンはやっぱり行ってしまうのだと、マリーにだってわかっていた。だからもう何も言えなかった。
アドリアンは喉奥からこみ上げてくるものを押さえて唇をブルブル震わせたが、それでも懸命にマリーの前で笑顔を浮かべた。
「きっと…………また、来るよ」
「本当!?」
「うん。必ず、来る。その時には皆で祭りで踊ろう。今度こそ」
「絶対よ! 絶対に約束よ!! アドル!」
マリーは大声で叫んでアドリアンに抱きついた。
返事の代わりにアドリアンはマリーを抱きしめて、そのまま持ち上げる。今になって気付いたが、マリーは裸足だった。
「ヴァルナル」
呼びかけると、ヴァルナルがすぐに腕をのばして、アドリアンからマリーを引き取った。
「世話になった。でも、また必ず来る。今、約束したからね。マリーと……オリヴェルとも」
「……お待ちしております」
ヴァルナルは何も言わなかった。
今回のことがあって、またここに来るのは簡単なことではない。だが、アドリアンがそう決意するのであれば、自分も出来得る限りのことはしよう……。
アドリアンは馬車に乗ると、窓越しに手を振った。
ヴァルナルに抱きかかえられたマリーが、両手で手を振っていた。
まだ夜明けの前の暗い道を、ゴトゴトと進んでいく馬車にマリーはいつまでも手を振っていた。
ずっと振っていれば、早くにアドリアンがまた戻って来るような気がして。
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