第百二十話 シケたクッキーの意味

 アドリアンは顔を上げて、しばらくオヅマの寝顔を見つめていた。


 きっと今の自分はひどい顔をしているだろう。

 オヅマが元気であれば、なんと形容するだろうか? 塩漬けキュウリ? 湿けたクッキー?

 本当に、いつもひどくて、意味のわからない誹謗ひぼうだ…。



 ――― はぁ? ヒボー? 言っとくけどな、これはただの悪口。怒るんだったら、もうちょっと気の利いた返ししてこいっての。



 前にオヅマに言われたことを思い出して、アドリアンは少し笑った。


「君、後で調べたけど『誹謗』も『悪口』も同じ意味じゃないか……」


 返事をせぬオヅマに向かって話しかける。

 考えてみれば、悪口を言った当人が悪口だと堂々と認めた上で、逆に気の利いた返答を求めるなど、何とも尊大極まりない。

 しかし、アドリアンは今、その『悪口』が聞きたかった。その上で今度はこう言ってやりたい。


『よくも次から次に考えつくものだね。あと三つほど悪口とやらを述べてみたらどうだ? いい悪口だったら、僕の分のピーカンパイを差し上げるよ』


 考えてから、アドリアンは首を振る。

 どうもあんまり気の利いた返しじゃない。


 静まり返った部屋で、アドリアンは昏々こんこんと眠り続けるオヅマを見ていた。

 明日の今頃にはもうオヅマのそばにはいられない。


「……ねぇ、起きてよ。もう、体は大丈夫だってビョルネ先生だって言ってたじゃないか。もうあれから十日以上経ったんだ。起きて、せめて見送ってくれよ……」


 言っているうちにアドリアンはボロボロと涙を流した。

 こんな形でオヅマと別れねばならないのかと思うと、どうしても悲しくて仕方がない。

 再び突っ伏して、うっうっ、とむせび泣いていると、不意に呼ばれた。


「………アドル…?」


 アドリアンはヒクッと喉を引き攣らせてから、顔を上げた。

 オヅマの目がうっすらと開いていた。


「オヅマ!」


 大声で呼びかけると、オヅマはぼんやりしつつも顔をしかめた。


「……ぅるせぇ」

「ご、ごめ…」


 謝ろうとすると、まだ引っ込みのつかない涙のせいでヒクッと喉が鳴る。

 オヅマはボゥっと天井を見つめたまま尋ねてきた。


「お前、泣いてんの?」

「…………悪いか」


 アドリアンがきまり悪くなって小さく言うと、オヅマはフッと笑った。


「いいや。やっと…」

「え?」

「お前さぁ…いつも……しかめっ面して誤魔化して…っけど、ずっと泣きそうだったろ? ……だからシケたクッキーなんだよ」

「………」


 アドリアンは返事ができなかった。

 いつもわからない悪口だと思っていたが、そんな意味があるとは思わなかった。


 公爵家の跡継ぎとして、感情を表に出してはいけない、と言われ続けてきた。だからその通りにした。その通りにすることが当たり前で、理由なんて考えなかったし、その方がラクだった。

 少しでも疑問を持てば、惨めに傷ついた自分に気付かされる。悲しくて泣きたくなる自分が溢れそうになる。

 だから、押し籠めた。誰にも、自分にすらも見えない心の奥底に。


「……諦めんな」


 オヅマはかすれた声だったが、強く、怒ったように言った。


「悟った顔して、諦めんな。もっと……足掻けよ。俺は……抗う。もう…諦めない……絶対に…もう…二度と……」


 まるで自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、オヅマの瞼は再び閉じた。

 アドリアンはちょっと怖くなって、オヅマの胸にそっと手をやった。ゆっくりと上下する心臓の鼓動を確かめて、ホゥと息をつく。


「ありがとう、オヅマ」


 アドリアンは立ち上がると、礼を言った。


 ただの偶然かもしれない。

 それでもアドリアンはオヅマが自分の声に応えてくれたのだと信じた。

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