第百十八話 「よく寝てます」

 アドリアンはその言葉を聞いた途端、執務室から飛び出した。


 オヅマの寝る部屋に向かう途中で、オリヴェルの主治医のビョルネ医師に会った。


「あ…小公爵様」


 小さく声をかけてきたビョルネ医師の腕をひっぱって、アドリアンは部屋まで連れてくると、必死に頼み込んだ。


「オヅマを診察してくれ! 頼むから、治してくれ!」


 ビョルネ医師は目を白黒させながらも、寝台に眠る青い顔の少年が、いつも少々尊大なくらいに生意気で元気だったオヅマだと気づくと、顔色を変えた。


「どうしたことでしょうか、これは」

稀能キノウを発現したんだ。それで血を…大量に血を吐いたんだ。血溜まりができるほどの」


 ビョルネ医師は眉を寄せたものの、鞄から聴診器を取り出すと、まずは心臓の音を聞いた。それから脈をとり、全身の状態を確認する。

 もう一度、聴診器の大きな逆三角錐を心臓の上あたりにあてて、小さな逆三角錐に耳を当てた。


「うーん…」


 ビョルネ医師はしばらく考え込んだ。

 アドリアンは切羽詰まった顔で尋ねる。


「治るのか? 治るよな? ………頼む、治してくれ」

「はぁ…えぇ……うーん。それは…どうしたものか…」


 もごもごと口の中で言葉を選んでから、ビョルネ医師はきっぱり言った。


「寝てます」

「は?」

「ですから……よく寝てるなーって」

「フザけてるのか!?」


 アドリアンは珍しくイラっとなって怒鳴ったが、ビョルネ医師は小鼻を少し掻いて冷静に説明した。


「いえいえ。フザけてなどいません。病人を前にして、そんなことは。しかし、オヅマを診察して僕が言えるのは、『よく寝てる』ってことだけです。眠ることで身体を回復させているのでしょう」

「それだけなのか? 失明とか…足が動かなくなってるとか……」

「瞳孔も一応光に反応していますし、足の筋肉に強張こわばりなどもございませんし、反対に弛緩しかんもしておりません。問題はないかと…。詳しくは意識を取り戻してから、本人に問診をしてみないとわかりませんが」


 アドリアンはビョルネ医師をじっと見つめた。

 必死な眼差しに、ビョルネ医師はたじろぎながらも繰り返す。


「た……たぶん、問題はないと…」


 アドリアンは急にオヅマの眠るベッドに突っ伏すると、戸惑うビョルネ医師に静かに言った。


「問題ないならいい。…下がってくれ」


 ビョルネ医師は「はぁ」と頭を下げて、部屋を出た。

 出たところで、ヴァルナルとルーカス二人に囲まれる。


「どうなのだ? オヅマの状態は?」


 ヴァルナルに尋ねられ、ビョルネ医師はアドリアンに言った言葉を繰り返す。


「特に、重篤な症状は見受けられません。呼吸も落ち着いておりますし、心臓も脈も正常です。関節などの異常や、筋肉の強張りや弛緩もないですし、瞳孔の反応も正常です」

「つまり?」


 ルーカスが結論を促すと、やはりビョルネ医師はこう言うしかなかった。


「よく寝てます」

「…………」

「…………」


 男三人は顔を見合わせて黙った。

 ビョルネ医師は心の中で、このはなんだろうか…? と気まずくなって、話を変える。


「あの~…オリヴェル様の診察も行いましたが、微熱が続いておられるようですので、薬を処方いたしておきました。いつも通りミーナ殿に頼んでおきましたが…」


 ミーナの名前が出て、ヴァルナルはハッと我に返った。


「あぁ…すまない。来て早々に診ていただいて、感謝する」

「いえ。では私はいつもの部屋に下がらせて頂きますので…もし、何かございましたら、いつでもお呼び下さい」


 ビョルネ医師はそれ以上、何か言われる前に部屋に引っ込むことにした。

 ルーカスの指揮で、けっこう強引な行程でここまで来たせいで、さすがに疲れていた。


 ビョルネ医師を見送った後、ルーカスとヴァルナルは部屋の扉をそっと開いて中を覗き見た。

 燭台の灯りに照らされ、ベッドに眠るオヅマのかたわらで、アドリアンが突っ伏しているのが見える。かすかに、嗚咽おえつが聞こえた。


 ルーカスは扉を閉じると、フゥと溜息をつきながら歩き出す。


「随分、ご執心じゃないか。我が小公爵様は」

「あぁ…対番ついばんだったし…」


 ヴァルナルは言いかけて、フフッと笑った。


「なんだ?」

「最初は険悪だったんだ。オヅマに対番になるよう言った時なんて、二人して睨み合っていたよ」

「ほぅ?」

「喧嘩もして、一緒に剣舞も舞って…こちらが何かを言わなくとも、友になるんだな。オヅマにとっても、小公爵様から吸収することは多かったようだ。色々大変なことがあったが、あの二人が仲良くなったことが、私には一番喜ばしい。これで罰を受けて放逐されても、私には十分な収穫だ」


 満足気に言うヴァルナルに、ルーカスはフンと鼻を鳴らす。


「よく言う。放逐などされないことがわかってるくせに」

「それなりの罰が生じると言ったのはけいだ」

「罰を与える前に、事件の詳細を聞く必要がある。どうやら馬鹿が首謀者になってるようだが……」


 言いながらルーカスは執務室まで戻ってくると、勝手にキャビネットからブランデーを取り出した。


「で? なにがあった?」


 ブランデーを口に含んで訊ねるルーカスの青い瞳が鋭さを帯びた。


 ヴァルナルは気を引き締め、一連の出来事を話し始めた。

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