第百十七話 公爵家の使い
その日、領主館の門は宵の頃を過ぎても閉じられなかった。グレヴィリウス公爵家の使者が訪れるとの先触れがあったからである。
その後、使者が到着したのは、夜半に近い時間だった。
「久しぶりございます、小公爵様」
執務室に呼ばれて、グレヴィリウス公爵家直属騎士団の団長代理であるルーカス・ベントソンの姿を見た途端に、アドリアンの顔は固まった。
―――― とうとう来た……!
アドリアンの予想通り、ルーカスはアドリアンを迎えに来たのだった。アドリアンの従僕であるウルマスも一緒だった。
「大変な目に遭われたようで、公爵閣下も心配しておられます」
ウルマスは言ったが、まったく心が籠もっていなかった。この場面に合わせて言っただけの、三文芝居の台詞に過ぎない。
「………いつ出る?」
アドリアンは簡潔に尋ねた。
「明朝には」
ルーカスが答えると、アドリアンはビリッと眉を寄せる。
隣で聞いていたヴァルナルが思わず聞き返した。
「明朝? こんな夜遅くに着いたばかりだというのに?」
「出来得る限り早く帰還するようにとのお達しでな。しばらく視察で
「それは勿論だが…」
ヴァルナルは公爵家からずっと走ってきた馬の交換に応じつつ、少しばかり意外だった。
いつも息子に対して、ほとんど無関心な公爵閣下が心配しているとは。
初めての長期に渡る息子の不在が、あるいは公爵にもいいように作用したのかもしれない。
だが、アドリアンの顔は暗かった。
そんなわけがないことは、息子のアドリアンが一番よくわかっている。
父は怒っているのだ。こんなことに巻き込まれ、ヴァルナル達に迷惑をかけた
だからしばらく領地を離れる前に、しっかりと叱っておきたいのだろう。
「この帰還は僕が
アドリアンが尋ねると、ルーカスは淡々と答えた。
「公爵閣下は特に何も
「今回のことで、男爵が咎められることはあるのか?」
アドリアンが強張った顔で尋ねると、ルーカスはチラとヴァルナルを見てから、すげなく言った。
「それは無論。あれだけ大言壮語しておいて、小公爵様を危険な目に遭わせたのですから、それなりの罰は生じることでしょう」
「ヴァルナルは関係ない! 彼に何も言わずに行ったのは、僕の独断だ」
アドリアンが激すると、ヴァルナルは首を振った。
「小公爵様。此度のことは、ひとえに私の不徳の致すところ。あなたに
「おぅ、そうだ。こんな騒ぎになって、レーゲンブルトの狼軍団の首領としては、不徳の上、面目丸潰れだ。皇帝陛下から黒杖を返せと言われても文句は言えないな」
ルーカスが重ねて茶々を入れると、ヴァルナルはやれやれと溜息をついて微笑む。
「ま、このようにベントソン卿が
「うん? どういう意味だ?」
「
「フン」
と、ルーカスは鼻をならしてから「ま、そういうことだ」と軽く肩をすくめる。
それでもアドリアンの顔は曇ったままだった。
「オヅマが……まだ、治ってないのに…」
小さな声でつぶやくと、ルーカスは首をひねった。
「オヅマ?」
「小公爵様と
ヴァルナルが尋ねると、それまで黙っていたウルマスがようやく出番だとばかりに口出しする。
「ビョルネ医師であれば、来て早々にクランツ男爵の世子君の診察に赴かれました。なんでも誘拐されたというではありませんか。このような
ヴァルナルは心中でかすかに苛立ったが、何も言わなかった。
実際のところ、そう考える人間は公爵家に多いことだろう。
ルーカスもまた、来るまでにこうした非難を幾度も聞いていたので、今更わざわざ否定する気にもなれなかった。
彼らが公爵の真意を勝手に
譜代の家臣でないヴァルナルへの風当たりは昔も今も強い。
まして公爵の信頼も厚く、継嗣の小公爵までもが彼を
「ウルマス、お前、この数日の馬車旅で腰が痛いと言ってなかったか? 今日は早くに寝た方がいいだろう。明日の早朝、
ルーカスは言葉だけ丁寧に、言外に「とっとと出てけ」と退出を促す。ヴァルナルとアドリアンからも白い目で見つめられ、ウルマスはきまり悪そうに身じろぎして、そそくさと執務室から出て行った。
「で? その目端のきく坊主がどうしたって?」
ルーカスはすぐにヴァルナルに向き直る。
ヴァルナルは目を伏せた。
「血を吐いて倒れたんだ。
「稀能? ガキが?」
ルーカスはさすがに驚いたが、すぐにいつもの皮肉げな顔になる。
「まったく。黒角馬だけでも妙な代物拾ってきたと思ったのに、なんだってお前ばっかり、そんな面白そうなモンを見つけてくるんだ?」
「見つけたんじゃなくて、向こうから来たんだが……。ルーカス、この周辺で『千の目』を教授できるような老師はいるだろうか?」
老師、というのは『先生』という意味で、必ずしも老人というわけではない。だが『練達の師』といった意味合いが強く、その場合、多くは経験豊富な老人であるため、たいがいの人は年寄りを思い浮かべるだろう。
ルーカスはどちらの意味で取ったのかはわからないが、何名かを脳裡に思い浮かべながら尋ねた。
「『千の目』? なんだ……まさか、そのガキの稀能が『千の目』だとか言うんじゃなかろうな?」
「そのまさかなんだ…おそらく」
「おそらく?」
「実際にその場に立ち合った訳じゃないからな」
ルーカスはしばらく黙り込んでから、ハハハと乾いた声で笑った。
「ないない。ある訳がなかろう。ガキに扱えるような代物じゃない。『千の目』を一度行使しただけで、失明した、足が使い物にならなくなったなんて話もあるくらいだぞ? 老師だって?『千の目』の遣い手なんぞ、ほとんどが隠棲して行方不明だよ。今、所在がはっきりしていて、しかも確実に『千の目』を遣える人など大公殿下しかいない」
「……やはり、そうか」
「あの御方が弟子をとったなんて話は聞かないし、まして、そのガキいくつだ?」
「今年で十一になる」
「ハッ! あるわけがあるか。十一のガキがまかり間違って『千の目』なんぞを発現したら、血反吐はいて死ぬか、良くて一生寝たきりだ」
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