第百十三話 ずっと友達

「マリーが…話せないんです」


 夕食後、オリヴェルの部屋を訪れたヴァルナルは、まだ少し顔色の悪い息子から告げられた。


「話せない?」

「声が出ないみたいで…」


 ヴァルナルは息をのみこんだまま固まった。

 マリーの方を見ると、起き上がってはいるが、いつもの元気は失せて、ぼんやりと、見ているのかわからない本を眺めている。

 その傍らで痛ましげに娘を見つめるミーナを見ると、気付いて目が合った。


「ビョルネ医師が来たら、マリーも診てもらおう」

「お気遣い頂き、有難うございます。申し訳ございません。本当に……」


 頭を下げるミーナに、ヴァルナルは「当然のことだ」と元気づける。


「おそらく一時的なものだろう。幼い子どもが見るには、少々…なまぐさすぎるモノであったからな」


 アドリアンから一部始終を聞いているヴァルナルは、ダニエルの首を見たマリーが、あの倉庫中に響き渡る叫び声を上げたと知って、心底気の毒に思った。生首など、大人であっても見れば相当に衝撃を受けるものだろう。


 ヴァルナルは痛ましげにマリーを見てから、そばに座っているミーナに視線を移す。

 無理をしないようにと言ったが、やはりミーナはこの数日、まともに眠っていないのだろう。ひっつめた髪はところどころ髪が垂れ、マリーを優しく見守る目の下にはクマが濃かった。

 ヴァルナルはしばし考えてから、ミーナに呼びかけた。


「ミーナ、前も言ったが…少し話がある」


 ミーナは顔を上げてヴァルナルを見て、何を訊かれるのか察したのだろう。口を引き結んで、コクリと頷く。


「オリヴェル、しばらくミーナを連れて行っても構わないか?」


 ヴァルナルが尋ねると、オリヴェルは当然のように了承した。


「大丈夫だよ。何かあったらナンヌに言うから」

「うむ。マリーのことも、頼むぞ」


 ヴァルナルとミーナが連れ立って出て行き、しばらくすると、そうっと扉が開いてアドリアンが顔を出した。


「アドル!」


 オリヴェルが声を上げると、マリーは扉の前に立つアドリアンの姿を見るなり、ベッドから降りて、裸足のまま走って飛びついた。


「あぁ…マリー。元気になったみたいだね」


 アドルは突然のことに驚きつつも、マリーを優しく抱き止めた。


「……元気は元気なんだけど…」


 オリヴェルは浮かない顔で口籠る。


「どうした?」

「マリー……今、しゃべれないんだ」

「えっ?」


 アドリアンが聞き返すと同時に、マリーの手に力が加わる。アドリアンは腰にしがみつくマリーの背をやさしく撫でた。


「本当に? マリー。僕の名前を呼べる?」


 マリーはアドリアンのお腹に埋めていた顔を上げると、懸命に名前を呼ぼうとしたが、息が漏れた音がかすかに聞こえただけだった。


「……なんてことだ」


 アドリアンが頭をおさえると、マリーの唇はプルプルと震え、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。

 アドリアンはあわててしゃがみ込むと、マリーの手を握って、やさしく話しかけた。


「ごめんよ、マリー。君に怒ったんじゃあないんだ。僕は……僕が、悪いんだ。君たちを巻き込んで…怖い思いをさせて、ごめん。本当に……」


 アドリアンは言いながら自分も泣きそうになって、唇を噛み締めた。

 どうして自分は守りたいと思った人を傷つけるんだろう……。

 生まれた時から、まるで宿命づけられたかのように、いつも自分にとって優しく愛しい人達は、自分のせいで傷ついて去ってしまう。


 暗い表情になるアドリアンを、マリーは濡れた瞳で見ていたが、ギュッと手を握り返した。


「……大丈夫だよ」


 隣でオリヴェルが言った。


「マリーも、そう言ってる。そんなこと考えなくていいって」

「でも、僕は……」

「君は、僕たちを助けたんだよ、アドル。あの男から……大人相手に立ち向かってくれたんだ。僕たちを逃がすために。それがどれだけ勇気のあることか、君は自分でわかってないだろう?」


 マリーはオリヴェルの言葉を聞いて頷くと、隅にある机まで行って、そこに置いてある紙にせわしなく何かを書いた。

 持ってきた紙を見たアドリアンは、とび色の瞳に涙を浮かべた。



 ―――― ありがとう、アドル。



 紫色のインクで書かれた幼い文字。

 自分のせいで声まで失ったのに、どうしてお礼なんて言うのだろう。自分よりも小さくて、ひどく怖い思いをしたに違いないのに、どうして……?


「まだ……僕と友達でいてくれるのか?」


 アドリアンが涙声で尋ねると、オリヴェルはニコリと笑った。


「ずっと友達だよ、僕たちは」


 マリーもアドリアンの手を握って、何度も頷いた。

 笑った顔にはいつもの向日葵ひまわりのような温かさと明るさが戻ってきている。


 アドリアンは立ち上がると、手で涙を拭って笑った。


「ありがとう」

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