第百十ニ話 氷解のとき

 誘拐された日、あの埠頭倉庫の地下で倒れていたオリヴェルは、数日、高熱が下がらない状態だった。

 主治医のビョルネ医師は生憎、公爵家本領地のアールリンデンにいて、診てもらうことができず、以前世話になっていた老医師が診察したが、前と同じで安静にしておくように、と指示するだけだった。


 ヴァルナルは仕事を片付けてから夜中になると、オリヴェルを見舞った。

 つらそうに顔を歪めて眠る息子を見る度に、自分がひどく不甲斐なく思えた。

 それは息子を危険な目に遭わせてしまったこともそうだが、長い間、幼い息子を放り出してきた自分が、どうしようもなく愚かで不人情に思えたからだ。


 一、二年ほど前であろうか ―――


 一度、オリヴェルの方から自分を訪ねてきてくれたことがあった。

 長かった南部戦役が一段落つき、領主としての仕事が充実してきた頃ではあったが、まだ長い戦の残滓ざんしのようなものが体に染み付いていた。

 だから自分を見たオリヴェルが卒倒した時、このか弱い息子に、血にまみれた自分は毒のような存在なのだと思った。

 それからはなるべく近づかないようにした。今にして思えば、そうして守ったのは自身の心であって、オリヴェルではなかったのかもしれない。


「父上……来ていらっしゃ……た、ですか?」


 救出して三日が過ぎた真夜中に訪れたヴァルナルに、目を覚ましたオリヴェルが掠れた声で尋ねてくる。

 ヴァルナルは怖がらせないようにと、ぎこちなく笑った。


「あぁ…すまないな。ミーナは今、少しオヅマの方を見に行っているんだ」

「……オヅマ…オヅマ……が…どう…して…」


 オリヴェルはオヅマがあの場に来たことを知らないのかもしれない。今、言って余計な心配をさせる必要はない。

 ヴァルナルは口を噤み、水差しの水をコップに注いだ。

 オリヴェルの背に腕を回して、そっと起き上がらせる。


「少し飲んだ方がいい」


 オリヴェルは父から水を飲ませてもらいながら、ぼうっと考えた。

 そういえば、こんなふうに間近に父を見るのは初めてだ。抱っこされて運ばれたことはあるが、あの時のことはあまり覚えていない。ただ……


「父上……」


 オリヴェルはあまり力の入らない手で、ヴァルナルの腕を掴んだ。


「言いたかったことが…あるんです」

「なんだ?」

「ごめんなさい……」


 ヴァルナルは意味がわからぬようにオリヴェルを見つめた。

 オリヴェルは浅い息で肩を揺らしつつ、もう一度言った。


「ごめんなさい。父上」

「なぜ、お前が謝るのだ? 悪いのは私の方だ。お前を危険な目に……」

「ううん。あの時……昔、父上の執務室に夜中に行ったことがあったでしょう? あの時、僕びっくりして倒れてしまったから。父上に会いたくて行ったのに、いきなり倒れて…。あれから僕、ずっと父上が僕のことを情けない息子だと思ってるって…思い込んでいたんです…」


 ヴァルナルはここ数日、オリヴェルを見るたび思い出していたあの日のことを、オリヴェルもまたずっと気にしていたのかと、胸をかれた。


「馬鹿な…そんな訳がないだろう」


 ヴァルナルが即座に否定すると、オリヴェルは微笑んだ。

 自分の隣に置かれた小さなベッドで眠るマリーをチラリと見る。


「マリーが……言ったんです。もしかしたら、父上は僕が倒れたのが、自分のせいだって思っちゃったんじゃないか…って。僕を驚かせて倒れさせちゃったから、会うのがこわくなっちゃったんじゃないか…って」


 ヴァルナルもまた、寝返りをうつマリーを見て微笑んだ。


「……あぁ、そうだな。マリーの言う通りだ」

「ごめんなさい、父上。僕が…もっと強かったら…」


 再び謝罪するオリヴェルを、ヴァルナルはそっと抱きしめた。


「お前は弱くなんかないぞ、オリヴェル。自身と真摯に向き合って、きちんと謝罪ができるのは、つよい心を持った人間だけだ。私はお前を誇りに思っている。至らない父親だったのに、お前は十分に優しくて毅い子に育ってくれた……」


 ヴァルナルはまだ熱のあるオリヴェルをゆっくりと寝かしつけると、自分と同じ赤銅色の頭を優しく撫でた。


「ありがとう、オリヴェル。私はお前を……愛しているよ」


 初めて言われたその言葉を、オリヴェルは素直に受け止めた。それは言われるまでもなく、もう十分にわかっていたからだ。


「うん。僕も……父上のことが、大好きです」


 ニコリと笑って言うと、ヴァルナルは心底嬉しそうに微笑んだ。

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