第五章

第百五話 疑われる男

 ネストリは戦々恐々としていた。


 ヴァルナルはとりあえず発作で気を失ったオリヴェルら子供達の看護を第一に考え、領主館で起きた火事のことは後回しにしたようではあったが、シレントゥで起きた事件の処理を終えて戻ってきたカールは、迎えたネストリを見て冷たく言った。


「妙なことが起きているようですよ、執事殿。後ほど、あなたの意見も伺いたい」

「…意見?」

「領主様や若君の居住する館ではなかったとはいえ、仮にも邸内の…しかも小公爵様が住まわれていた小屋が火事になったのです。執事として、原因を調査することは当然でしょう?」

「あぁ…それはもちろん!」


 ネストリは必死で答えたが、ピクピクと顔が強張る。  

 カールはそんなネストリを冷淡に見て去っていった。



 ―――――疑われている!



 はっきりと自覚して、ネストリの背中に冷や汗が噴き出る。


 こんなことは想定していなかった。自分は手紙を受け取って、相手の言う通りにしただけだ。火事にしたって、人がいないことを確認してやったのだ。事実、誰も死んではいない。

 悪いことなどしていないのに、どうしてこんな目に遭わねばならないのだ。

 まさか領主の若君を誘拐するなど思っていなかった。本気で小公爵をどうにかしようとするなんて…思いもよらなかったのだ。


 元来小心者のネストリのような男は、もしから「小公爵を殺してこい」と直截に言われても、できるはずもなかった。

 ネストリができることといったら、子供じみた嫌がらせ―――藁を敷いたベッドではよく眠れない小公爵に、まともなベッドを与えてやらぬとか、時々館内で迷っている小公爵にまったく違う方向を教えてやるとか―――それこそネストリの心が傷まず、溜飲が下がるという程度のものだ。


 ネストリは大それた野望を持ったりはしなかった。彼は意気地なしなので、身に過ぎた野望のために奮励努力するよりも、自分に出来うる範囲での栄達を求めた。そのこと自体は極めて平凡な願望であるのに、なぜかネストリは今、薄氷の上に立っていた。自分でもどうしてこんな事になってしまったのか、わからない。


 既に夜も更けていたことから、その日のうちに尋問されることはなかったが、ネストリは翌朝のことを考えると憂鬱以上に恐怖で眠れなかった。


 しかしネストリは助かった。


 翌朝、とうとう例の黒角馬の研究班の一団が到着したのだ。

 ただでさえ誘拐事件の動揺がまだ収まっていない領主館は、てんやわんやの大騒ぎとなった。


 とりあえず研究者らの寝居する客室の準備を整え、こちらの事情を知らない学者らからの無頓着で世間知らずな質問にいちいち答えねばならない。これはネストリ一人だけのことでなく、ヴァルナルもまた領主として対応する必要があり、騎士団も同様だった。


 ネストリはホッとしつつも、先延ばしになっただけだとわかっていた。それまでにどうにか自分への嫌疑が晴れる言い訳を考えねばならない。

 どうしたものかと考えつつ、今日もまた両替商に行く必要があった。

 いつものように私書箱の前に立って、憂鬱な顔で受取口の鍵を開ける。束になった書類と一緒に、薄汚い袋が一つ入っていた。色褪せているが、緑色だ。いつも送られてきていたあの手紙の封筒と同じ色。


「………」


 ネストリは眉を顰めながら、恐々とその袋を手に取った。

 やや重い。

 中を見れば、金貨が二枚入っていた。一枚取り上げて、思わず落としそうになる。十ゼラ金貨だった。すぐさま袋に戻して、ネストリはその袋をポケットに突っ込んだ。


 サッとあたりを見回す。

 両替商の大きな机の向こうでは、事務方の人間が熱心に書きものをしていて、こちらを見た様子はない。むしろジッと見てくるネストリに気付いて、少しだけ顔を上げ、怪訝に見た後にまた仕事に戻る。部屋の隅にいる番兵は船を漕いでいるし、他に人はいなかった。


 ネストリはせわしなく両替商を出た。足早に領主館に戻り、執事室に入るともう一度ポケットの中から袋を取り出して、中身を確かめた。汚らしい袋の中にあったものと思えぬほど、その金貨二枚はまばゆい金の光を放っていた。


「………なんてことだ」


 こんな大金を持っていたら、それだけで横領かと疑われそうだ。

 まして、今のこの時期にこんなものがあるのは迷惑でしかない。絶対に今回の事件との関連性があると思われるだろう。


 一体、相手は何のつもりだろうか? まさか報酬とでも言うつもりか。それとも口止め料か。あるいは、今後も協力を頼むという圧力か。


 ネストリはギリと歯噛みして、金貨を床に叩きつけたかったが、その音をもし騎士にでも聞かれたら…と思うと、鬱憤を晴らすことすらもできなかった。

 金貨を握りしめてブルブル震えているネストリの背後のドアがノックされ、ロジオーノが声をかけてくる。


「ネストリさん。いらっしゃいますか?」


 ネストリは天を仰ぎ、眉間をきつく押さえ込んだ。

 どうしてこうも次々と仕事がやって来るのだ。こっちはそれどころでないというのに!


 ネストリはポケットに金貨の入った袋をねじ込むと、仏頂面でドアを開けた。


 その後も帝都からの一癖も二癖もある学者や、職人達の相手をしながら、通常の執事としての仕事に明け暮れて、ようやく考える時間ができたのは、深夜になってからだった。


 とりあえずは火事だ。

 火事についての疑いさえ晴れれば、後に起きたことに関してはネストリの知るところではない。

 本当に何も知らないのだ。相手が誰だったのか、一人なのか複数なのかすらも知らないのだから。


 そうして火事のことばかり考えていたせいなのか、ネストリの足は自然と火事で消失したオヅマの小屋跡に向かっていた。

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