第百三話 アドリアンの涙

 アルベルトについて部屋に案内されたアドリアンは、暖炉の火が灯されたその人気ひとけのない部屋を見回した後、尋ねた。


「オヅマは?」

「隣の部屋だ」

「じゃあ、僕もそっちで寝る」

「申し訳ないが、ベッドの用意ができていない。今日はゆっくり休むようにと、領主様からも言われただろう?」

「……ちゃんとしたベッドなんていらないよ。ソファでもあれば十分だ。それに…どうせ眠れそうにない」


 アドリアンはそう言うと、部屋を出て行く。隣と言われて、右か左のどちらだろうかと迷っていると、左の扉からミーナが出て来た。


「あっ…」


 声をあげたアドリアンに気付いてミーナは俯けていた顔を上げる。

 いつも綺麗に結いまとめた髪が少し乱れ、憔悴した表情には色濃い疲労が見てとれた。それでもアドリアンを見た途端に、すぐさま背筋を伸ばし、腰を低くして深く頭を下げた。


「…此度のこと、どうかお許し下さいませ」

「………やめてくれ」


 アドリアンは苦しげにつぶやいた。

 この人に対しては、ヴァルナルよりも申し訳なく感じる。いっそなじられた方が良かった。


「僕が巻き込んでしまった。オヅマもマリーも、オリヴェルも。あなたは…僕を恨んだっていいんだ」


 ミーナはオヅマと同じ薄紫色の瞳でアドリアンをじっと見つめて、小さく震えるアドリアンの手を取った。


「傷ついたのは、あなたも同じはずよ。アドル」


 あえてミーナは小公爵としてではない、一騎士見習いの『アドル』に呼びかけた。


「大丈夫。マリーも、オヅマも、若君も…みんな無事です。この子達はきっと元に戻ります。私がそうします。必ず、元気にしてみせます」


 顔色は悪かったが、ミーナの瞳は強い光を帯びていた。引き結んだ唇は確乎とした笑みを浮かべて、アドリアンを励ます。


 この時になって、ようやくアドリアンは涙を流した。

 止めようもなくボロボロと泣く自分が恥ずかしくて、乱暴に目をこするアドリアンをミーナがフワリと抱きしめた。


「つらかったわね、アドル。可哀相に…」

「………」


 アドリアンはもう耐えられなかった。

 涙がまた奥から溢れて出てくる。みっともなくしゃくり上げて泣くことを止められなかった。 


 今回の誘拐騒ぎだけではない。これまでずっと蓋をして、我慢してきた感情が溢れて、アドリアンは自分でもどうしてなのかわからないくらい泣いた。





 オヅマの様子を見にやって来たヴァルナルは、少し離れて二人を見ていた。

 ミーナにやさしく抱かれて泣きじゃくるアドリアンを見てホッとすると同時に、ますますミーナへの思慕が募る。

 おそらくこの館の中で、誰よりも心身共に疲れているであろうに…どうしてあんなに人を思いやることができるのだろう。


 ヴァルナルはさっきまでの自分の態度を省みて嘆息した。

 アドリアンが公爵邸で味わってきた忍従の日々を知っていながらも、ヴァルナルは彼を見守ることしかできなかった。子供らしい日々を送ることもなく、年不相応に老成し、自らを追い詰めるアドリアンの悲しみを慰めることはできなかった。


 ヴァルナルの視線に気付いたミーナがこちらを向く。美しい薄紫ライラック色の瞳は、柔らかな光を浮かべてヴァルナルを見つめた。


「領主様…」


 ミーナが呼びかける。

 アドリアンはあわててミーナから離れた。


「あぁ……オヅマの様子を見に来たんだ」

「ありがとうございます。さっきまで少し熱があったのですけど、今はひきました。お医者様にも診て頂いて、とにかく目を覚ますまで様子を見るしかないと…」

「そうか。後で………いや、今日じゃなくて、落ち着いてからでいいのだが、オヅマのことで少し訊きたいことがある」


 ミーナの顔が一瞬、ピクリと強張った。だが、すぐに目線を伏せて頭を下げる。


「畏まりましてござります」


 ヴァルナルは真っ赤に目を腫らしたアドリアンに優しく呼びかける。


「眠れないか? アドル」

「………はい」

「では、二人でオヅマを看護するとしよう。ミーナ、貴女あなたはオリヴェルとマリーも見ているのだろう? 無理をせずに、時々体を休めるように。たまには人に頼ることだ。貴女を助けたいと思う人間は多くいるのだから」

「はい。領主様のご厚意で、マリーも若君と同じ部屋で休ませていただいて、一緒に看護ができます故、そんなに疲れてもおりませぬ。ありがとうございます」


 ミーナはいつも通りに胸の前で手を組んで辞儀した後に、クルリと振り返ってアドリアンの濡れた頬をハンカチで拭った。

 穏やかにアドリアンを見つめてから、クスリと笑う。


「目を冷やした方がいいわね、アドル。明日には蜂に刺されたみたいにぷっくり腫れてしまうことでしょう」


 そのままハンカチをアドルに渡して、ミーナは去っていった。

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