断章 -千の目- Ⅰ

 が…また、来ている。


 ねじれながら、緩やかな流れとなっておし寄せてくる。


 昏いが。


 オヅマは抗うこともできない………。





『千の目』


 数ある稀能の中においても、突出して修得が難しいとされている。

 なぜならば、多くの稀能において重要とされる視覚野を、一時的に喪失させるからだ。盲目ではない人にとって、視覚というのは感覚の中でも広範な分限を持つ。故にこそ人は視覚に依存し、依存していることにすら気付かない。


 この視覚野を喪失させることで得るのは、より広範な、より鋭敏なる感覚。


 極端なまでに研ぎ澄まされた集中、絶無の境地によって引き起こされるこの身体現象を理解できぬ者は、魔術や人外の者による異能と呼ぶこともあるだろう。

 実際、この能力はただ才覚あれば取得できるものでなく、また同時に努力によって必ず身につくと保証されるものでもない。

 素質、才能、不断の努力、そして―――――


「適切な、教育だ」


 その声はやさしく響いた。

 口元に浮かぶ微笑と柔らかな口調に、オヅマは盲目的に彼を信じた。


 言われるがまま、『千の目』修得に向けた訓練を受け入れる。


 彼は呼吸法や瞑想といった集中力を高めるやり方を自ら教えてくれた。低く深みのある声はオヅマの耳朶に心地よく響き、徐々に侵蝕していく。


 何度か昏倒し、鼻血を出し、時々視力が戻らなくなったりする度に、彼はオヅマをやさしく介抱してくれた。なかなか上達しないオヅマを見放すこともなく、辛抱強く励まして導いてくれる。


 オヅマが基礎的な集中方法を身に着けた後、彼はオヅマにある女を紹介した。


「彼女はリヴァ=デルゼ。女だが、有能な戦士だ。今日からは、この者がお前のだ。言う事をしっかり聞いて励むように」


 女―――リヴァ=デルゼは挨拶をせず、オヅマを見てニヤリと笑っただけだった。顔立ちは若かったが、白いものが多く混じった頭髪と、凄みある雰囲気は老獪な年増女にも見えた。


 その日から、オヅマは生傷が絶えることのない身体からだとなった。


 屋敷の一角にある半ば廃墟のようになった館と、その広い庭で、より実地的な修練が行われた。


 最初は隠した鼠を、教えてもらった集中の方法を使って見つけることから始まった。それから太らせた大兎、利口でよく躾けられた豆猿、猛毒を持った甲殻蛇。

 最初檻に入れられていたそれらの動物は、やがて放たれて動くようになる。この時から見つけ次第、殺すことを命じられた。それは百匹近くの時もあれば、広範な敷地の中で三匹だけということもあった。


 発見と同時に瞬時に殺す。相手に反撃の隙も与えないように、こちらの存在を知られず殺傷に及ぶことが理想とされた。


『千の目』の対となる『まじろぎの爪』と呼ばれる稀能。


 これもまた当然、修得する必要がある。

 罠の仕掛けられた野山を昼夜を通して駆け回り、オヅマはどんどん身軽に、より敏捷に、速くなっていった。

 運動機能は瞬く間に成長していったが、少しでも気を抜けば、落とし穴に落ちて串刺しになりそうなことも、崖を転がり落ちて冷たい川で溺れそうになることもあった。

 文字通り死にかけそうになりながら、それでもオヅマはしぶとくこの修練に耐えた。


「いい子だ」


 リヴァ=デルゼはオヅマが失敗をしない限りにおいて、優しく、機嫌が良かった。

 背丈は並の男よりも頭一つ分高く、白髪の多く混じった薄茶色の髪はバッサリと耳下で切っているので、一瞬男かと見紛う容姿であったが、ピッチリと着た戦闘用の服は豊満な胸も、くびれた腰も隠そうとせず、しなやかで引き締まった女体を顕示していた。


「よかろう。では、次の課題に移ることにする。明後日に、西の庭にある温室に来るように」


 言われた通りに訪れたその温室は、まるで手入れがされておらず、天井の硝子は所々割れていた。珍しい異国の木が硝子を突き破るように伸びていたが、途中で枯れて大きな灰色の葉が萎びて垂れ落ちている。花はほとんどなく、どこからか伸びた蔦が全体を覆い、石畳の間からは雑草が伸び放題。噴水の水はとうに涸れて、女神と妖精の彫像には罅が入り、黒い黴が染み付いていた。


「ここに五体いる。いつものようにれ」


 リヴァ=デルゼは指示だけして、大木からダラリと垂れ落ちた大きな葉を持ち上げ、鬱蒼と茂る灌木の間を抜けて立ち去った。


 この訓練において、リヴァ=デルゼがいつもどこにいるのかは不明だった。よほど巧妙に姿を隠しているのか、オヅマがどれだけ集中して探ってみても、彼女の気配を感じたことはなかった。

 あるいは訓練中は、オヅマのことなど放ってどこかに行っているのかとも思ったが、リヴァ=デルゼはオヅマが課題をこなすとすぐさま姿を現した。やはり、どこかで目を光らせているのは間違いない。


 オヅマは剣を左手に持ち、立膝をついた。


 砂粒よりも小さな羽虫がそこいら中を飛んで、ささやかな音をたてている。

 オヅマは顔の周りを飛び回る虫を追い払って眉を寄せた。

 この虫は邪魔だ。集中を削ぐ。

 だがその中であっても『千の目』を使えてこそ、稀能と呼べるのだろう。


 ゆっくりと深呼吸を三回。うっすらと開いた目は、斜め下を見つめる。

 そこにはたんぽぽの綿毛が揺れていた。

 ふと、マリーを思い出す。いつも綿毛を見つけては、必ずぷうっと吹いていた……。

 オヅマは一瞬だけ、やわらかく笑った。それからすぐに表情を固める。


 ゆらゆらと綿毛が揺れている。

 揺れているのを見ている。

 徐々に…その姿がぼやけていく。

 どんどん暗くなっていく視界。

 眠る前の微睡まどろみに似た気怠さと、奇妙な高揚。

 チリチリとうなじが痛痒くなって、尖っていく感覚。

 神経がそこに集中していく。

 太く縒り合わせられた縄。

 それをゆっくりと静かに、ほどいて行く。

 解いて、細く、長く―――――神経の糸を伸ばしていく。

 

 ―――――フゥ…。


 密やかな息遣いを感知する。


 一体目を捕捉すると同時に、オヅマは跳躍した。

 噴水の背後にある茂みの裏にいる。左に持った剣で即座に首を狙って、すんでで止めたのは、微かな幼い悲鳴が耳に入ったからだ。

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