第九十六話 埠頭倉庫の攻防(2)
一方、エラルドジェイは急に消えた少年の気配を用心深く探っていた。
ちょこまかと猫に追いかけられた鼠のように動き回っていたかと思ったら、この静けさ。
荒い息遣いすらも潜めて、一体、どこに隠れたのか……?
まるで自分以外には誰もいないかのような静寂にエラルドジェイは眉を寄せた。
あるいは外に逃げたのか…と考えて、すぐに否定する。倉庫の出入り口は少年が入ってきた通用扉しかない。油を差してないせいか開閉時には必ず音がなるし、外から入ってくる空気の流れで気付かない訳がない。
「………フ」
エラルドジェイは無意識に手が震えている自分に笑った。馬鹿馬鹿しいことに、自分は緊張しているらしい。あの少年に。体の動かし方も剣の扱いも、まだ稚拙な子供相手に?
エラルドジェイはぐっと拳を握ると、ヒュンヒュンと四本爪を素早く振り回した。シンとした空気を掻き斬る音にも、反応はない。
エラルドジェイはゆっくりと通路を歩き出した。
少年の考えていることはわかる。
おそらくエラルドジェイの真似をして、隠れて気配を消し、不意打ちしてくるつもりだろう。であれば、襲わせるまでだ。
あえて足音をたてて、何の構えもとらずにフラフラと歩いてみせる。
その実、素早く視線を四方八方に動かし、わずかな物音も聞き漏らさないように耳を澄ませ、いつ少年が襲いかかってきても対処できるように臨戦態勢をとる。
そこまで警戒しながらも、エラルドジェイは内心では自分が少年に負けることを考えていなかった。どんなに気配を消しても、襲撃する間際の殺気や、そもそもこちらに近づく足音を、そう簡単に素人が消すことなどできないだろう……。
それが、エラルドジェイの油断だった。
もっと早くに攻撃に備えるはずであったのに、気づけば少年は真後ろにいた。
剣を振り下ろす直前の、ヒュッと息を吐く音でかろうじてエラルドジェイは振り向いた。
自分の反応が遅れたことに驚愕して、エラルドジェイの四本爪は封じられた。
少年の剣が真っ二つにエラルドジェイを断ち斬ろうとする。
常人であれば、確実に殺されたはずだ。
だが、反射的に危機を
剣の軌跡から、どうにか致命的な傷を負うことはすり抜けたものの、頭を覆っていた白い布と、雀の面が切られて床に落ちる。
カラーンと乾いた音が倉庫内に響いた。
エラルドジェイは大きく飛び
急激な動作と、有り得ない事態に、呼吸が乱れる。大きく肩を上下させながら、少年と対峙したエラルドジェイは、そこで一層信じられないものを見る。
闇の中で光る金の目。
それは…明らかに普通の人間でないことを示すもの。
「お前…その目……」
だが驚くエラルドジェイと同様に、目の前の少年は信じられないようにエラルドジェイを凝視していた。剣を振りかぶったまま、硬直している。
「…………エラルドジェイ…」
少年が自分の名前をつぶやいて、ますますエラルドジェイは困惑を深めた。
◆
静かに―――――
チリチリとうなじに集中する神経を、ゆっくり伸ばしていく。
視覚よりも聴覚よりも鋭く犀利な感覚。
ヒタヒタと倉庫中に蜘蛛の巣のごとく張り巡らせる。
深く深く集中するほどに、心臓の音ですらも消えていく。
呼吸しているのかもわからなくなる。
絶対的な無音の中で眠気にも似た
だが、
相手に反撃の
オヅマは男を捕捉するなり音もたてずにその背後に迫った。
息を浅く吐いて、剣を振り下ろす。
だが、間一髪で男はかわした。
白い布と雀の面が床に落ち、ちょうど天窓から差す月の光に男の姿があらわとなる。
「………」
オヅマはその紺色の髪と紺の瞳を見た途端、剣を振りかぶったまま硬直した。
見開いたまま閉じることもできない瞳の奥で、一気に夢が押し寄せてくる。
腰まで伸びた紺の髪。楽しげに笑う紺の瞳。
手持ち無沙汰だと言って、いつも胡桃を二つ三つ持って、手の中でゴリゴリ回すのが癖だった。
人を食ったような喋り方は、誤解されることも多かったが、本当は義理人情に厚い、やさしい男だった。
―――――仕方ない。お前は恩人だからな。俺は恩は忘れないことにしてるんだ…
馬鹿なエラルドジェイ。
大した恩じゃなかったのに、むしろこっちが助けられたことの方が多かったのに。最後の最後まで…オヅマを見捨てなかった。
―――――生きるんだ、オヅマ…
力をうしなっていく声。
助けられなかった命。
大事な『恩人』の、最期の言葉。
「エラルドジェイ…」
オヅマはつぶやき、涙が一筋こぼれた。
自分でも訳がわからなかった。
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