第九十五話 埠頭倉庫の攻防(1)
オヅマはシレントゥに向かって走っていくほどに、集中力が研ぎ澄まされていくのを感じていた。
アドリアンの残していった紙のことを思い出して、一つ一つの図形の意味を解いていく。
あれがシレントゥの地図であるとするならば、波線はおそらく川を指している。ドゥラッパ川だ。それから扇形に『3』の文字は、おそらく埠頭の番号だ。埠頭は川に向かって、扇形の桟橋が架かっているから。
日が完全に落ちた頃に、
オヅマは倉庫の大きな二枚扉を見上げた。
無数の
オヅマが黒ずんだ通用扉に手をかけて押すと、ギッとやや大きな音をたてて開いた。
倉庫の中は真っ暗だった。天窓から星は見えても、光が差し込むほどではない。
暗闇の中でじっと目を凝らす。徐々に目が慣れてくると、中央に大きな通路があり、その左右に木の
いや……違う。何かが、息をひそめてこちらを窺っている。確実に、オヅマを見ている何者かがいる。
オヅマは腰の短剣を抜いて、構えながら
「誰かいるのかッ!?」
闇の中で、クスリと笑ったような気配。
オヅマはカッと血が昇った。
「テメェ! あの雀の奴かッ!?」
「やれやれ…時間差で来るとはねぇ。あの小公爵様、思った以上に策士だな。確かに『誰にも知られないように』来てはくれたけど、残された人間が勘付くことについては預かり知らぬ、というわけだ。…………まぁ、予想の範囲内ではあるけど」
ガランとした倉庫に響く若い男の声に覚えがあった。間違いない。昼間に見た雀の面の男だ。
「クソ野郎! マリーとオリーを…アドルも返せッ!」
「そんなこと言わずに。せっかく助けに来たんだから、助けてみたらどうだい?」
楽しそうに言って、男が暗闇で素早く動く気配がすると同時に、オヅマは反射的にその場から飛び
空気を斬りつける銀色の閃き。
かわしたと思ったが、頭を軽く切られていたらしい。額を血が伝う。
オヅマはギリと奥歯を噛み締めて、すぐに短剣を振るったが、この暗闇においても雀の面を被った男は、ガチリと右腕を立てて刃を受け止める。
見たことのない武器だった。腕に装着されているのか、幅広の袖口から爪のような長く細い刃が四本伸びていた。刃の間から男の傷だらけの拳が見える。
「その短剣で、どこまでやれるかな?」
男は笑うと、四本爪の武器に体重をのせてギリギリと押してくる。オヅマは押し切られる前に、目一杯の力で短剣を四本爪に押し返すと、素早く後ろに飛んで間合いをとった。
しかし直後に男が向かってきて、ギリギリで避けたオヅマの目の先で四本爪が弧を描く。
「……クッ!」
オヅマは四本爪を短剣で払うと、クルリと身をよじらせて、男の死角を狙った。しかし、男は外壁に飛び乗ったあの跳躍力で、二階へと飛び上がると姿を消した。
オヅマはゼイゼイと激しく息しながら、油断なく辺りの気配を窺った。
そろりと動いて、二階への階段を登ろうとした時、真横に何かが落ちてきて、硬い音をたてた。
「それ、使うといーよ」
「……なに?」
「ここに置いてあった
オヅマはギロリと声のした方を睨みつけた。
忌々しいが、男の言う通りだった。間合いの短い短剣で、あの男の長い爪のような武器をかいくぐって、仕留めるのはかなり難しい。
オヅマはそっと、足で剣に軽く触れた。何か細工をしている訳でもなさそうだ。
短剣を腰に戻しながら、床に転がった剣の柄頭をツイと足ですくうように蹴り上げて、素早く右手で掴む。
両手で剣を構えたと同時に衣擦れの音がして、上から男が降ってきた。反射的に剣で防ぐ。男は弾かれた反動を利用して後方へとクルリと宙返りすると、左右に身軽に動いて撹乱しつつ、隙をつくように狙ってくる。
たっぷりした袖口から伸びた四本爪の武器は、それ自体が腕であるかのように、剣よりも早く俊敏に動く。
男の攻撃は不規則だった。
オヅマの攻撃をしのぐと、急に姿を消す。それでオヅマがキョロキョロと辺りを見回していると、不意をつくように二階からだったり、太い柱の陰から急に襲いかかってくる。
オヅマは襲ってくる刃を弾きながら、かわすだけで精一杯だった。それでも腕や頬に切り傷が増えていく。
「なんだ…入ってきた時はもっと出来ると思ったんだけどな。集中が切れてきたか? 坊や」
また姿を消した男が、いかにも残念そうに言ってきた。
その台詞で、この男がまだまだ本気でないことがわかる。
オヅマはその楽しげな様子に歯噛みしながら、冷静にこの状況を分析した。
このままでは駄目だ。弄ばれて、疲れるだけ。男の作り出したこの場を、変えなければならない。
オヅマは激しく肩を上下させながら、男の声からおおよその位置を推測した。
入ってきた扉を背にして、中央の通路の右側の木組み。二階部分にいる。
オヅマはその反対にある左側の木組みの二階にダダッと駆け上り、木枠の間を縦横無尽にすり抜けていった。
子供の利点で、大人であれば確実に木の枠に頭なり足を打ち付けるところだが、オヅマは
荒い息遣いもあえて隠さなかった。気配を散らせて、男の鋭敏な感覚を混乱させるのだ。少しの間でいい。それから――――
隅にある大きな箱の陰に、オヅマはしゃがみ込んだ。
「……なんだ? 今度は鬼ごっこか?」
男があきれたように言うのが響いた。一階部分の通路に出て来たようだ。
オヅマは三度の深呼吸で乱れた息を整えた。
それから、うすく目を
ゆっくりと、空気に自分を馴染ませていく。
全方位索敵術『千の目』。
それは相手の気配を読み取るだけではない。
自らの気配を消し、相手に悟らせず、敵の所在を察知する。
どうしてそんなことを知っているのか、オヅマは考えなかった。
何も考えない。
そうしなければ、マリーも…オリヴェルも、アドルも……誰も助けられない。
今、必要なのだ。
彼らを助けるために、自分は何がなんでも、この目の前の敵を掃討せねばならない。……
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